関西OB会会員 末木弘さんからの提供資料です。ファイル変換のため、体裁が乱れています。対訳は、添付のpdfファイルをご覧下さい。(03/06/26)

ES WERDE LICHT!(光あれ!)

(ヤーコプ・ルートヴィヒ・)フェリックス・メンデルスゾーン(=バルトルディー)

男声合唱とピアノ(またはオルガン)のための宗教祝典歌

作詞:ヘルベルト・フォッグ

編曲:ゲルハルト・トラック

1840年にフェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディーが作曲した祝典カンタータ:"Es werde Licht!"「光あれ!」は、当初「印刷術百年祭(*)の祝典歌」というタイトルの作品であったが、男声合唱と管弦楽のための「祝典歌:(グーテンベルク・カンタータ)」(グーテンベルク印刷術については注1参照)とも呼ばれている。また、第二楽章の旋律は英国や米国で親しまれているクリスマスキャロル:「歌詞原作者チャールズ・ウェスリー(1739年)、改訂者ジョージ・ホィットフィールド(1753年)、更に1850年当時の歌詞にウイリアム・カミングスが編曲した"Hark, The Herald Angels Sing"(日本基督教団1954年版賛美歌98番『あめにはさかえし』、日本福音協会聖歌123番『聞けや歌声』)」(このクリスマスキャロルについては注2注3参照)に使われている。尚 このキャロルには他にも数え切れないほどの歌詞や編曲がある。

ゲルハルト・トラックは28年間(1958年~1986年)米国に在住、このカンタータのオリジナル・コピーを見つけ、例のクリスマスキャロル("Hark, The Herald Angel Sing")の旋律が「グーテンベルク・カンタータ」の第二楽章と同一であることに気付き、先ずヘルベルト・フォッグ博士にカンタータのためのクリスマス(降誕祭)向けの作詞を依嘱した。

フォッグ博士は、第三楽章冒頭の詞(ことば):"Der Herr, der sprach: Es werde Licht!"(神は言われた。「光あれ。」)をその侭にして、宗教祝典カンタータを書いたが、その結果、クリスマス・シーズンだけでなく、一年中上演可能な祝典作品になっている。

(*)Sakularfeierは「百年祭」の意味だが、sakular単独では「一世紀に一度の、百年ごとの」という意味だから、正確には「百年ごとの祭典」。メンデルスゾーンが依嘱を受けたのは四回目の祭典だから四百年祭。

管弦楽の編成:

 フルート2 オーボエ2 クラリネット2

 ファゴット2 ホルン2 トランペット2

 チューバ  ティンパニー  弦楽器

Ⅰ.CHORAL コラール

Ⅰ.CHORAL コラール(16世紀初頭のルターによる宗教改革で一般市民の啓蒙目的としてつくられた、プロテスタントの会衆が歌う讃美歌。衆讃歌ともいう。)

M:"Es ist das Heil uns kommen her", Nurnberg 1523;

メロディー:「救いは我らに来たれり」;(ニュールンベルク 1523年)

T:nach Johann Jakob Schutz (1640-1690)

歌詞:ヨハン・ヤーコプ・シュッツ(1640-1690)作詞のものに拠る。

いと高き天の神に讃美と栄光を
真に慈悲深い父に讃美と栄光を
あらゆる奇跡を行う、主に讃美と栄光を
慰めをもって、私の心を満たし、
我々のあらゆる苦痛を癒す、
主に讃美と栄光を。
我らの神に栄光あれ。
我らの神が造り給えしものは、
彼(神)もこれを守り、
朝な夕な(いつも忘れずに)、
慈しみ深い目をもって、統べ治める。
それ故、私の心は生気に満ち溢れ、
歓喜の声高らかに、あなたを誉め讃える。
我らの神に栄光あれと。

Ⅱ.LIED

Ⅱ.LIED(リートは歌曲、特にドイツ歌曲の意味として日本では使われるのが一般だが、ここでは詠唱とでも言うのだろうか?そして意味するところはカトリックのミサやプロテスタントの礼拝に於ける詩篇朗唱等に相当するのだろうか? )

歌詞の主題は旧約聖書の創世記6章「洪水」~9章「祝福と契約」。尚 新約聖書のマタイによる福音書27章46節「イエスの死」の有名な成句を思い出させる詞(ことば)が歌詞2番の1~2行目に現れる。

また 3番の歌詞を読むと、私の思い過ごしかも知れないが、このリートから、イスラエルの民すなわちユダヤ民族讃美の声が、聞こえて来るような気がする。因みに メンデルスゾーン一族はモーゼス・メンデルスゾーン(作曲家フェリックスの祖父で、哲学者、宗教改革者、文学者などマルチタレントとして、一世を風靡し、当時のヨーロッパ全土で、最も著名なユダヤ人であった。)を祖とする、文化面に於けるロスチャイルド家と称される、名門のドイツ系ユダヤ・ファミリー(1939年に閉鎖されるまで、ベルリンに於ける主要民間銀行であったメンデルスゾーン銀行も所有)である。

(参考文献:東京創元社発行ハーバート・クッファーバーグ著 横溝亮一訳「三代のユダヤ人-メンデルスゾーン家の人々」1985年初版)

編曲のトラック氏(ウイーン在住)も作詞のフォッグ博士もユダヤ系ではないだろうか。 

主が大洪水を齎すと、
罪を犯した人類は死滅し、
洪水によって、造り主に背く
諸々のものが、絶滅するとき、
主は言われる。「忠実な僕と契約を
結び、新たに地球を祝福する」と。
十字架上で義人が、「何故あなたは私をお見捨てになるのですか?」と、大声で叫ぼうとも、人間の尊厳が悪の力に屈服しよう(人間が魂を悪魔に売り渡そう)とも、主は言われる。「私は約束を守るから、あなた(人間)は未来永劫滅び去ることはない」と。
あなたが、「神は、見ているだけで、何もしないのか?」と、神を疑い、逆らっても、
あなたが、「神は何処におられるのだ?私には何も見えぬ!」と、怒り、憤激しても、
彼(神)は、わが民を選び、
わが民を統べ治められる、そしてその神は、
祝福の言葉を述べられる。「あなたは、
未来永劫滅び去ることはない」と。

(*)マタイによる福音書27章46節:

(ルーテル聖書)"Und um die neunte Stunde schrie Jesus laut: Eli, Eli, lama, asabtani? Das heist: Mein Gott, mein Gott, warum hast du mich verlassen?" ("DIE BIBEL nach der Ubersetzung Martin Luthers"から引用。)

(1611年版英国欽定聖書)"About the ninth hour Jesus cried with a loud voice, saying, Eli, Eli, lama, sabachthani? That is to say, My God, my God, why hast thou forsaken me?"

( die neunte Stundeとthe ninth hourは、「第9時課」のことで、午後3時頃行う聖務日課の一つ。)

(新共同訳聖書)三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言う意味である。

Ⅲ.LIED

Ⅲ.LIED(リートの意味はⅡに同じと理解。)

歌詞は旧約聖書の創世記1章(天地創造)に基づいている。

主は言われた。「光あれ!」と。
また 彼(主)は約束された。
私たちが、勇気と自信をもって
主の造られた世界で、生き続けることを。
この光は、主の愛のなせる業
この世界で灯された、
私たちの心を燃え立たせようと。
褒め称えよ 感謝せよ 造り主の御業を、
光が、私たちの進むべき道を指し示す。
讃美と賞讃を 主のなせる愛の御業に、
それが、この光を灯してくれた。
(全時代を通して)いついかなる時にも、
私たちが、主の約束を忘れぬようにと。
褒め称えよ 感謝せよ 造り主の御業を、
光が、私たちの進むべき道を指し示す。
(全時代全空間を通じて)いつでも何処でも、主の約束は永久に効力を失わない。
私たちは、光のお蔭で夜から解放され、
(初めて)創造(主の御業)の栄光を見る。
主の約束は、私たちの手に委ねられる。
創造に栄光あれ!
主の約束が(百人力、千人力の)自信となり、それが、満ち溢れる勇気と相俟って、
神と共に唱える。「光あれ!」
「光あれ!」と。

Ⅳ.CHORALコラール

Ⅳ.CHORALコラール

M:Johann Cruger, 1647;

メロディー:ヨハン・クリューガー、1647年

T:Martin Rinkart(1586-1649)

歌詞:マルティン・リンカルト(1586-1649)

さあ、みんな揃って、心を込めて、声張り上げ、手を合わせ、神に感謝の祈りを捧げよう。
神は、私たちは勿論のこと、
至るところで、不思議な御業を行い、
更に、私たちが母の胎内にいる時から
今日までずっと、私たちに
数知れぬほどの祝福を
お与え下さいました。
いつの世でも惜しみなくお与えになる神よ、私たちの命のある限り、
私たちの心を、 いつも喜びと
安らぎで満たして下さい。
また 神の慈しみ深い御心をもって
私たちを、末永くお守り下さい。
そしてあらゆる苦難から私たちを
お救い下さい。

(*)キリスト教では、人間が神に崇敬の念を表明する行為を、カトリックでは「ミサ(聖祭)」、プロテスタントでは「礼拝」と呼ぶ。また 祈り(祈祷)が礼拝・ミサの基本であって、カトリック、プロテスタントを問わず、最重要といっても過言ではない。従って、私は心・口・手を祈りの表現手段と考えたい。

心は言うに及ぶまい。口は言葉を発する器官から「声」に繋がる。手には「合掌」「手を合わせて拝む」などがある。

キリスト教でも、既に12世紀末には「祈りの姿勢」を7態に区別する学者もいた。そして11・12世紀には、指を伸ばした両手を胸の高さで合わせて両膝を地面につける跪拝が、西方キリスト教独自の祈りの姿勢として普及し、神に捧げる個人的な祈りの姿勢としてふさわしいと考えられるようになる。

(引用文献:ちくま学芸文庫「池上俊一著 身体の中世」 2001年第1刷;岩波書店発行 新日本古典文学体系 明治編12「新体詩 聖書 讃美歌集」2001年第1刷)

誤訳、見当違い、思い込みに過ぎるところなど多々あると思いますが、ご容赦下さい。また お気づきの点がありましたら、ご連絡下さい。尚 注1~注3などは別に纏めたものを、後日 用意致します。 

以上 (末 木)

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