O Vos OMNES おお 全ての人々よ

 道行く人よ、心して
 目を留めよ、よく見よ
 これほどの痛みがあったろうか
 わたしを責めるこの痛みほどの

(参 考)

 この歌は旧約聖書の『エレミヤ* の哀歌』(英訳聖書で"LAMENTATIONS OF JEREMIAH"日本語聖書では『哀歌』)に典拠しているようです。関係箇所(下線部分)を新共同訳聖書から引用しておきます。

 哀歌(1.12)第一の歌(アルファベットによる詩)

   道行く人よ、心して
     目を留めよ、よく見よ。
   これほどの痛みがあったろうか。
   わたしを責めるこの痛み
   主がついに怒ってわたしを懲らす
     この痛みほどの。

(注)* 「四大預言者」の一人(他の三人はイザヤ、エゼキエル、ダニエル) ユダヤ人の魂の救済は弾圧と苦難を経ることによってのみ実現されると説いたが、このため迫害を受け、エジプトでの隠棲を余儀なくされました。同地で石打ちによって殺されたといわれています。後世の伝承によってカルデア人による紀元前586年のエルサレム破壊を悼んだ『哀歌』の作者とされています。「キリストの受難」の預言者ともいわれ、その場合は十字架を持物として絵画や彫刻に登場します。 (ジェームズ・ホール著高階秀爾監訳『西洋美術解読事典』に拠る)

 このカザルスの歌も、「キリストの受難」を連想させるのではないでしょうか。


TOTA PULCHRA なにもかも美しく(無原罪の聖母)

 マリアよ
 あなたはなにもかも美しく
 罪の汚れひとつなく
 生まれたまう
 あなたはイェルサレムの栄光
 あなたはイスラエルの歓喜
 あなたはわれらが民の高き誉れ
 あなたは罪人の善きとりなし人
 おお マリア!
 慎み深き聖き処女
 慈しみ深き聖母マリア
 われらのために祈りたまえ
 主イエス・キリストにとりなしたまえ
 ハレルヤ

(参 考)

 この歌は一部旧約聖書の『雅歌』に典拠しているようです。関係箇所を新共同訳聖書から引用しておきます。

 雅歌(4.7)若者の歌 

恋人よ、あなたはなにもかも美しく  傷はひとつもない。 

Tota pulchra es, amica mea, Et macula non est in te.

 尚、『NIGRA SUM』の参考記事も併せて御覧下さい。


RECORDARE, VIRGO MATER きっと、とりなし給え 聖母マリアよ

 聖母マリアよ
 神のみ前にお出のときは
 われらのために善きことをお告げになって
 神の怒りがわれらの上に降り懸からぬように
 きっと、とりなしたまえ  ハレルヤ


NIGRA SUM わたしは黒い 「イェルサレムのおとめたちよ」

 イェルサレムのおとめたちよ
 わたしは黒いけれども愛らしい
 それ故、王はわたしをお選びになり
 みずから、お部屋にお連れくださる
 王は言います
 「愛する人よ
  さあ、出ておいで
  ごらん、冬は去り、雨の季節は終わった
  花は地に咲きいで、この里にも
  刈入れのときがやって来る」
 ハレルヤ

(参 考)

 この歌は旧約聖書の『ソロモンの歌』*1(英訳聖書で "THE SONG OF SOLOMON"日本語聖書では『雅歌』)に典拠しているようです。関係箇所(下線部分)を新共同訳聖書から引用しておきます。

 雅歌(1.5)おとめの歌

   エルサレムのおとめたちよ
   わたしは黒い*2けれども愛らしい。
   ケダルの天幕、ソロモンの幕屋のように。

 雅歌(1.4)おとめの歌

   お誘いください、わたしを。
   急ぎましょう、王様
   わたしをお部屋に伴ってください。

 雅歌(2.10)おとめの歌

   恋しい人は言います。
    恋人よ、美しいひとよ
     さあ、立って出ておいで。

 雅歌(2.11)おとめの歌

   ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。

 雅歌(2.12)おとめの歌

   花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。
   この里にも山鳩の声が聞こえる。

(注)*1 カザルスがこの歌を作るにあたっては、恐らく『モンセラットの黒い聖母』(別紙)をイメージして、詩はこの『ソロモンの歌』に典拠したのではないかと想像できますが、如何でしょうか?

ここで、ヨーロッパのマリア信仰と『雅歌』の解釈について、触れておきたいと思います。(以下 ジェームズ・ホール著高階秀爾監訳『西洋美術解読事典』より引用)

12世紀から13世紀にかけては、「聖母礼拝」と呼ばれるまでの強力な信仰展開が西欧で見られました。これは十字軍に続いて起った宗教心高揚の時代でした。「われらが女主人」(仏Notre Dameノートルダム)に奉じられることの多い、フランス・ゴシックの大聖堂で、そのような高まりが頂点に達したと言われています。この運動の啓発者たちの中で、筆頭に挙げられるのがクレルヴォーの聖ベルナルドゥス(1090-1153)です。彼はこの『ソロモンの歌』(『雅歌』)を精巧な寓意詩と解し、その中に登場する歌人 の花嫁こそほかならぬマリアであると考えました。実際、そうした解釈はすでに中世の人々の知るところとなっていました。しかし、聖ベルナルドゥスにより広く敷衍され、聖母に関連した図像表現の多くの典拠になったのです。尚、今日では『雅歌』を、婚礼の宴で朗唱される恋歌を集めたものとするのが一般的です。

*2 この『黒い』は『黒人』を表現するものではなくて、『日焼けして黒い』ということです。『雅歌』にそう歌われています。

 雅歌(1.6)おとめの歌

どうぞ、そんなに見ないでください
日焼けして黒くなったわたしを。
兄弟たちに叱られて
ぶどう畑の見張りをさせられたのです。
自分の畑は見張りもできないで。

カザルスの方はどうでしょう。やはり『黒人』ではないでしょう。こちらは、むしろ『モンセラットの黒い聖母』が念頭にあった様に思われます。


SALVE MONTSERRATINA めでたしモンセラートの(黒い)聖母

歌詞は、十字軍の最初の扇動者の一人であるアデマール・ド・モンテイユAdhemar de Monteil(?~1098)が士気を高めるために書いたとされる、マリアに女王(レジーナ)と呼びかける有名なサルヴェ・レジーナ(SALVE REGINA)の祈りと全く同じ。(竹下節子『聖母マリア』参照)

(訳例1)

     めでたし元后、あわれみ深いおん母。私たちのいのち、なぐさめ、望みなるお方、
     めでたし。
     私たち、さすらいのエワの子はあなたに向かって呼ばわり
     あなたに向かって泣き叫びます、この涙の谷で。
     いざ、私たちの代願者よ、あわれみのおん目で、私たちをかえりみて下さい。
     またご胎内の祝せられたおん子イエズスを
     このさすらいの終わった後私たちにお示し下さい。
     ああ寛容、ああ仁慈、ああ甘美なる処女マリア。

(カトリック聖歌集より)

(訳例2)

     天の元后、あわれみのおん母、わたしたちのいのち、よろこび、のぞみなるマリア。
      わたしたちエバの子、さすらいの旅人は、あなたにむかって叫びます。
     この涙の谷で悲しみなげきつつ、あなたを慕い仰ぎます。
      わたしたちのためにとりなし給うおん母よ、あわれみの眼を、
     つねにわたしたちに注いでください。
      わたしたちのさすらいの旅が終わる日にあなたの御子イエズスを
      眼のあたりわたしたちに示してください。いつくしみ、恵み、幸い
      あふれる乙女マリアよ。

(1998年発行の講談社選書メチェ:竹下節子著『聖母マリア』より)

(訳例3)

     天の元后、憐れみの御母。我らがいのち、歓び、希みなるマリアよ
     我らエバの子、さすらいの旅人は、あなたに向かいて叫びまする
     この涙の谷で悲しみ嘆きつつ、あなたを慕い仰ぎ見まする
     我らがためにとりなし給う御母よ、絶えず憐れみの眼を、我らに注ぎ給え
     我らのさすらいの旅が終わる日に、あなたの御子イエズスと
     我らが眼のあたりに示し給え
     慈しみ、恵み、幸いあふれる乙女マリアよ

(1999年発行の文春新書:中丸 明著『聖母マリア伝承』より)

モンセラットの聖母

 松井先生から御指摘のあったように『モンセラットの聖母』は『黒い聖母』です。「芸術新潮」´99年10月号(残念ながらバックナンバーはなく、図書館から借出し)が『黒い聖母』(The Black Virgins)の特集をしていますので、その中の馬杉宗夫氏(武蔵野美術大学教授)の『なぜ黒いのか?「黒い聖母」の起源と信仰』から抜粋して紹介させて戴きます。

黒い聖母(1)モンセラットの黒い聖母

 『黒い聖母』像が崇拝されていた場所というのが、極めて特殊な所である。ガリアの地(今のフランスが中心)がキリスト教化される4世紀以前、この地はケルト民族が信仰していたドルイド教でおゝわれていた。ドルイド教*1とはある種のアニミスム(霊魂崇拝)で、聖なるものは自然のなかに存在する聖樹(樫、ブナ、やどり木)、聖水(泉、河)、巨石(メンヒル*2、ドルメン*3など)であった。そして注目すべき点は、『黒い聖母』像が存在している場所は古くからドルイド教のそれらの崇拝が行われていた場所と一致していることである。

 巨石崇拝と結びついた地――フランス中央高地にはル・ピュイやロカマドゥールの『黒い聖母』像がある。

 スペインに目を転じると、カタルーニャ地方の聖地モンセラットも巨石崇拝の地であり、ここにも『黒い聖母』像がある。カタルーニャ地方の州都バルセロナから北西へ約50キロ。そこに聖地モンセラットの山がある。モンセラットの山は、標高1200メートルを超える山の中腹725メートルの所に、ベネデクト派の大聖堂がある。11世紀に創設された大聖堂は、ナポレオンの軍隊によって破壊され、再建された巨大な建物は、ロマネスク時代の面影のない、味気のないものになってしまった。

 唯一ロマネスク時代の面影をとどめているのが、大聖堂内に安置されている『黒い聖母』である。この像は、9世紀に洞窟のなかで発見されたと伝えられているが、実際は12世紀、いわゆるロマネスク時代に彫られた1メートル足らずの聖母像(木造彩色)である。像自身は、聖堂内陣の一段と高い祭壇に置かれ、身廊から見上げると、あたかも、聖母子像が天に飛翔しているかのように視角に入ってくる。人々は、右側廊から石段を登り、中央部で聖母子像を礼拝し、左側廊の石段を下りる。聖母子像は、透明なケースに入れられているが、聖母が右手に持つ丸い天球の部分のみケースに穴が開けられ、そこから直接、手で触れられるようになっている。

 聖母子像(幼児キリストは19世紀に制作)は、冠や衣は金を主体とした豪華な色彩で塗られているが、顔や手など、露出している肌が黒い。現在聖地モンセラットに人々を惹きつけているのは、この『黒い聖母』像である。

 鼻筋の通った端正な長い顔、繊細な長い指。何と愛らしい像であろうか。これは、カタルーニャ地方に散在している、いわゆるロマネスク時代の極彩色の聖母像とは違う。また、土着的で荒々しく、粗野な、カタルーニャ地方の聖母像ではない。フランス的な洗練が加味されている。これも、巨石崇拝の地と結びついた『黒い聖母』像なのである。

  • Druid ガリア、ブリテン諸島の先住民族であるケルト人の宗教。霊魂不滅・輪廻を信じたといわれるが、口伝によったため教義・儀礼の詳細は不明。
  • Menhir 巨石記念物の一種。細長い自然石を垂直に立てたもので、西ヨーロッパ新石器時代に特徴的。記念碑・墓碑・信仰の対象などの説がある。
  • Dolmen 巨石記念物の一種。新石器時代から金属器時代にかけて構築。数個の支石と大型の天井石で構成。墳墓と見られる。全世界に分布。

(2)なぜ黒いのか?

 黒い色彩については、それが12世紀の制作当初から塗られていたということに、疑問を投げかける人々がいる。長年の蝋燭の煤によって黒くなったとか、かって銀泊が貼られていたので、その酸化作用によって黒ずんだとか、土の中に埋められていたために黒くなったとか、色々な理由が挙げられた。しかし、これらの理由では、なぜ着衣は黒ずんでいないのかを説明することは出来ない。その上、同様の状況下にあった他の聖人像などが黒ずんでいない理由も説明不可能である。それゆえ、何らかの意図により、ある時から黒く塗られ、そのままの姿で現在まで崇拝されてきたことだけは確かであろう。とはいえ、12世紀に『黒い聖母』像があったことを伝える記録や文献は残されていない。聖書にも、『黒い聖母』すなわち黒色を正当化するような文章はない。あえてあげれば、「エルサレムのおとめたちよ、わたしは黒いけれども愛らしい。ケダルの天幕、ソロモンの幕屋のように」という旧約聖書「雅歌」1章5節の文章がある。これに従い、当時の彫刻家たちが、パレスチナの人々は色が黒いと考えたからとする説もある。しかし、この記述によって、聖母マリアの肌を黒く塗ったとは思えない。

 キリスト教において不吉な、忌み嫌われるべき色彩である黒は、キリスト教以前の他の異教文明においては、意外とそうではなかった。古代エジプト神話には、イシスという女神が登場する。彼女は大地の女神で、太陽神ホルスの母親である。この大地の女神イシスがしばしば黒く表現されるのである。また、聖母マリアに神の母(テオトコス)としての神性を認める会議(431年)が開かれた地、小アジアのエフェソス(トルコ西部)にあるアルテミス神殿では、太陽神アポロンの双子の妹にあたるアルテミスの黒い像が崇拝されていた。アルテミスも、古くは先住民族の大地の女神であった。大地の女神こそ、暗黒の大地から生命を生み出す根源である。これらの像が黒く塗られていたことは『黒い聖母』の謎解明には無視できない事実であろう。

 キリスト教がガリアの地に浸透した4世紀以降もなお、ドルイド教の伝統すなわち聖石、聖水、聖樹崇拝は、根強く残っていた。アルルの公会議(452年)から、カール大帝によってアーヘンで公布された法令(789年)に至るまで、キリスト教は繰り返し樹木、泉、巨石などを崇拝することを禁じている。ドルイド教の伝統は、キリスト教側にとって無視できない現実だった。それゆえ、キリスト教徒たちが、ドルイド教の聖地を自分たちの聖地として、そこに聖堂を建てたとき、土着の民間信仰との衝突を避けねばならなかったのは当然である。聖母マリアが黒く塗られたのは、元々その地で信仰されていたケルトの、豊饒な、母なる大地の女神、又は、奇跡の黒い石などの信仰と結びついたからではなかろうか。

 人々は、キリストの母なる聖母マリアと、土着の地母神との一致を求め、あえて純潔無垢なる聖母マリアを黒く塗ったのであろう。そこには原始キリスト教的な、土着の現世御利益的な信仰、すなわち、安産、病気治癒などを期待した人々の信仰があったことは否定できない。まさにそこに、『黒い聖母』の謎が潜んでいるように思える。