第二回OB六連 来年四月二七日 東京芸術劇場にて開催

東京六大学OB合唱連盟第二回演奏会が、二〇〇二年四月二七日(土)東京芸術劇場大ホールにて開催されることとなりました。

一九九七年に東京六大学の各OB合唱団が集まり、東京六大学OB合唱連盟(OB六連)が結成され、その第一回演奏会が一九九九年四月に開催され、大変好評でした。今回はその第二回演奏会となります。

わがOB合唱団アカデミカコールも、三澤洋史先生の指揮で、ドイツのヘルフェルト氏に委嘱した「レクイエム」を初演することとなっています。

また、各団の演奏後、第一回演奏会で大変好評でした各団のエールを出演者全員で歌うこととなっており、また、最後には三澤先生の指揮により、巡礼の合唱、水夫の合唱を合同で演奏する予定です。

本番には多くのOBの皆様にご参加下さいますよう、お願い申し上げます。


OB六連第二回演奏会に向けて 

東京六大学OB合唱連盟代表  梶川 浩(S39卒T2)

 我アカデミカコールは昨年ケルビーニの男声合唱レクイエムをオーケストの伴奏付ではじめての単独演奏会(OB合唱団としては第二回目)を行い好評を博した。五、六年前のアカデミカの活動から考えると夢の様な出来事であったがこのキッカケとなったのが実は二年前のOB六連第一回演奏会であった。OB六連の演奏会を持とうと言う話はその一年ほど前からあり明治OBが中心となって各校のOBに連絡があり我アカデミカは三木君、荒川君、市木君を中心としてそれに積極的に対応した。

もともとアカデミカの活動をもっと活発にするにはどうするかと言った議論があり幹事団を中心に将来多くのOBが歌った事のあるケルビーニをオケバンで演奏会を持てたら参加者も多く集まるだろう、と酒を飲みながら夢の話として議論していた。そこにこのOB六連の話が持ち上がりこれを好機と捉えた前述の三君を中心にケルビーニを取り上げる事を決定し三澤先生にお願いした。そして前の年の現役コールの定期演奏会賛助出演からOB六連へとつなげたのである。

 その後の事は省くがこのOB六連第一回演奏会の成功をステップに現在のアカデミカの活動があり、我々にとっては忘れる事の出来ない演奏会である。

 来年四月二七日に東京芸術劇場で持たれるOB六連の第二回の演奏会は当番校を東大が引き受ける事になったが、以上の様な事情から押されれば引き受けざるを得なかったと思われる。私も情熱を持ってアカデミカの運営に注力してくれている三君を少しはお手伝いすべく三期会を代表して微力をつくしている。来年の第二回演奏会が成功裏に終わり我アカデミカが更なる発展への手がかりを掴める様最善を尽くすつもりである。皆様多数のご参加をお待ちします。


日 時  2002年4月27日(土)pm1:00開場/pm1:30開演

場 所  東京芸術劇場大ホール

演奏曲(演奏順は未定)

慶應義塾ワグネル・ソサィエティーOB合唱団

 「ジプシーの歌 op.55」

      作詩 A..ヘイドゥーク/作曲 A..ドヴォルザーク/編曲 福永陽一郎

      指揮 須 田 和 宏 / ピアノ 端 山 圭 子

東京大学コールアカデミーOB合唱団アカデミカコール

 「男声合唱のためのレクイエム」(委嘱初演)

     作曲 F・J・ヘルフェルト

     指揮 三 澤 洋 史 / ピアノ 大 島 由 里

法政大学アリオンコールOB会・男声合唱団オールアリオン

 男声合唱とピアノ・打楽器のための「牡丹と獅子」

      作曲 中 村 茂 隆

     指揮 井 口 亨

明治大学グリークラブOB会合唱団駿河台倶楽部

 男声合唱組曲「わがふるき日のうた」

      作詩 三 好 達 治 / 作曲 多 田 武 彦

      指揮 北 橋 伸 治

立教大学グリークラブOB男声合唱団

 男声合唱とピアノのための「ことばあそびうたⅡ」

      作詩 谷 川 俊太郎 / 作曲 新 実 徳 英

      指揮 髙 坂 徹 / ピアノ 久 邇 之 宜

早稲田大学稲門グリークラブOB会・稲門グリークラブ

 「スペインの歌」

      編曲 石 丸 寛

      指揮 山 田 和 樹

全席指定 S3,000円  A 2,500円

チケットご希望の方は、荒川昌夫まで

TEL 03-5729-3360 / FAX 03-5729-3350

E-mail masaoh.arakawa@nifty.ne.jp

(今後開催日まで、会報等にてお知らせする機会はありませんのでご注意下さい)


ヘルフェルト作曲「レクィエム」について

アカデミカコールのみなさんへ

ヘルフェルト作曲「レクィエム」について

三 澤 洋 史

聖書の中で「新しい歌を主に歌え」とあるように、我々は現代に生きる者として、常に「今」の感覚でものを感じ、表現してきました。

バッハもベートーヴェンも当時としては「現代音楽」だったわけであり、みなそれぞれ独自の方法論を持って、今までにない「新しい発想」を音楽の中にもたらし、次の時代を先導してきたわけです。

ところが二〇世紀になってロマン派音楽が終焉を告げ、同時に調性が崩壊すると、音楽の前方に明確な道筋を見つけることが困難になってきました。

アーノルド・シェーンベルクは一二音技法を編み出した時、「これであと百年のドイツ音楽の優位は保証された。」と語りましたが、それはあたかも「理想の第三帝国」建設に燃えたナチス・ドイツのように、砂上の城となってたちまち崩れ去ってしまったのです。

「現代音楽」から何故聴衆が遊離し、「現代音楽」の中の世界において起こることが、「コップの中の嵐」になってしまったかということについては様々な要因があり説を唱えることも出来ましょうが、一番の原因は、作曲家自身が自分の作品に対しての一人の素朴な聴衆となることを止めてしまい、自己満足の殻に自らを閉じ込めてしまったことにあると思います。

つまり「この曲を聴いて面白いか?」とか、「この曲から自分は何を得るのだろうか?」という問いを発することが芸術家としての根本的な存在意義なのに、それを忘れてしまったわけなのです。

僕はヘルフェルト氏と知り合い、彼と親交を深める中で、幾度となくこうした話題について彼と話し合い意見の一致をみていました。

彼は現代において聴衆と真に向かい合える数少ない芸術家のうちの一人であると、僕は確信しています。

そうした彼の新作「レクィエム」において彼は次のように語っています。

「多くの作曲家が無調で作曲する中で、自分は調性を用いて曲を作る。勿論、これまでの使い古された和声法をそのまま用いるということでもないが、人の魂の中に届く音楽を作ろうとした時に、やはり調性を離れてそれを成し得る事は困難であろう。

レクィエムの作曲依頼が日本という国から来たことに、自分はある種の運命を感じている。

キリスト教国に生まれている自分から見てレクィエムという形式が日本においてとても受け入れられていると言う現象はとても興味深い。自分のレクィエムが、キリスト教徒ではない人々にも受け入れられるものとなるように、作曲してみようと思っている。

すなわちより普遍的なものとしての「レクィエム」というものを表現してみたいのだ。同時にレクィエムの中にある様々な要素を深く掘り下げ、分解し、再統合して、一体レクィエムとは何かというものに全身でぶつかって、そこから新しい可能性を引き出してみたい。

ひとつの例を挙げると、まずレクィエムの歌詞をひとつひとつ分解し、バラバラにする。曲が始まると意味のない母音や子音が響いてくる。しかしそれらはレクィエムの歌詞の各要素なのだ。曲が進んでくるにつれて母音や子音達はだんだん集まってくる。そして聴衆はある瞬間気づくのだ。それが再統合されたレクィエムの歌詞であることを・・・・。」

ヘルフェルト氏は現在ドイツにおいて最も活躍している中堅作曲家です。現代曲の作曲家には珍しく、放送管弦楽団や放送合唱団などから、沢山の依頼をかかえてアクティブに活動を続けています。

彼は常に聴衆と共にありながら、その中に彼独自のアイデアを織り込み、結果的には誰よりも新しい音楽を作り出すことに成功しています。だから我々の取り組む姿勢としては、まず発想を転換することがあげられます。

彼の曲は「譜面づら」ほど難しくはありません。そして最終的に響き渡るであろう音楽は、説得力を持った美しいものになるはずです。

それを信じて、難しそうだからと短期間であきらめてしまわないことを僕はみなさんに是非お願いしたい。

それと、これが初演にまでこぎつければ、日本の合唱界に一石を投じる「事件」となることが予想されます。

決してオーバーではなく、この作品は20世紀以降の宗教曲の傑作のひとつに数え上げられるものになると僕は信じています。

そのきっかけをアカデミカコールが作ったと言えるところにまで、みんなで力を合わせて取り組んでみようではありませんか。

「産みの苦しみ」はあるでしょうが、これまでの全ての巨匠の全ての「傑作」も、いつかどこかで誰かの手で「初演」されていたはずです。

そしてその多くはとても大きな困難を伴い、初演自体も不成功に終わったり、経済的に破綻をきたしたりして、みな大変なエネルギーを費やしているのです。

今までどこにも響かなかった「新しい歌」を産み出すという使命と、冒険と、そして喜びを、僕はみなさんと共有したいのです。

どうかみなさんの協力をお願いします。


東京合唱団演奏会への参加

岩本 宗孝(S40年卒B2)

 二〇〇一年九月二日の日曜日、我がアカデミカコールは、紀尾井ホールにおいて東京合唱団の定期演奏会に一ステージ出演し、成功裡に終えることが出来ました。このステージは、我々にとって、二一世紀における最初を飾る演奏活動であるとともに、今回取り上げた、番場俊之氏編曲によるグノーの第二ミサ曲のオーケストラ版による本邦初演であること、そして、現役時代のわれらがバックボーンであった前田幸市郎氏のご子息の前田幸康氏がはじめてアカデミカの指揮台に立たれたことなど、まさに歴史に残るものであったといえます。

 私自身は、現役時代を通じて、この曲の演奏に加わったことはありませんでしたが、学生時代にたしか関西学院だったかと思うのですが、いわゆるオリジナル版の演奏を聴いたことがあり、なんとなく印象に残っており、今回も練習を始めたときに、まったく初めてではない親近感を持って臨むことができました。と、同時に、元来のオルガン伴奏をオーケストラ伴奏にしたときにどんな響きになるのか、興味深いものでありました。今回、自分自身はステージに乗っておりましたし、また、その後、録音での出来映えも聴いていないため、客観的な評価は出来ませんが、原曲の良さも活かしつつ、しかも、オーケストラの存在も控えめながらはっきりと主張する、なかなか、良い編曲であり、また、その意図を反映する好演奏であったのではないかと自負しております。オーケストラは弦楽器のみの約二〇名編成、合唱は四〇名強で、バランス的にも均整がとれ、また、東京ニューシティ管弦楽団も、昨年のケルビーニの演奏会で競演した経緯もあり、いっそう、息の合った演奏を実現することが出来たように思います。前田先生が練習で特に強調されたキリエの冒頭でズーンと広がる和音が、あの音響効果のすばらしいホールに響き渡ったときの快感はなんともいえないものがあり、その後も、かなり自由にテンポに緩急をつけられる先生の棒に乗せられて、最後まで緊張の緩むことなく、一気に歌い終えたのが偽らざる実感でした。演奏後に先生が指揮台から我々、合唱団に向かって大きな拍手をされたのも、あながち、単なる儀礼でなく、本当に良かったよ、と言っておられるように思えたものでした。今後、この編曲が、男声合唱団の新しいレパートリーとして広く取り上げられ、また、今度はそれを客席から聴く機会を持てれば幸せと感じる次第です。

 東京合唱団のメインのステージはブラームスのドイツレクイエムであり、我々のメンバーからも一〇人以上の方が参加されました。私は、練習に加われなかったせいもあり、今回は客席で聞かせていただくこととなりましたが、参加された方々は大変ご苦労様であったとともに、それぞれ忙しい時間をやりくりして練習に参加し、ステージに立たれたことに対してはまさに頭の下がる気持ちです。そして、こちらのほうは皆さんご存知のように、オケもフル編成でソロも含め、なかなかパワフルで、聴き応えのある演奏でした。もっとも、ごく平均的な聴衆には、宗教曲の大曲二曲の演奏というのは、多少胃もたれがするきらいもあったかとは思わないでもありません。

 演奏会の終了後、前田先生の後援会の総会と、演奏会の打ち上げを兼ねたパーティーが催されたのですが、この席で、山内先輩の発案により、前田幸康先生に「野ばら」を振っていただく機会を持つことができました。幸康先生も指揮をしながら大変うれしそうなご様子でしたが、おそらく天国の幸市郎先生もきっと目を細めてお聴きになられているのではないかと感慨無量でした。

 例によって、一言、「コールの連中、年ばかり食って、ちっともうまくならねえなあ。」などとつぶやかれたかもしれませんが。


戦中・戦後の私のコール 断章

菊 池 正 一(S20卒B2)

 先日鳥生さんにOB合唱団の大戦後復興の経緯について聞かれたのだけれども、このところ年令のせいでとんと記憶がだめなのである。年寄りは最近のことは忘れても昔のことはよく覚えているものだそうだが、私の場合最近のことはもちろん昔のことも殆ど忘れている有様なのだ。しかし折角のご質問にいくらかでもお役に立てばと思って何か思い出すよすがになるような物はないかと何十年も前の紙クズをひっぱりだして眺めてみた。雑記帳に書きとめた事項にOB合唱団のこともあるにはあった。けれどもあまりに断片的で、以て一文を草するにはまことに資料として貧弱であると判断された。そこでとりあえず古いノートにしるされた事柄をとりとめなく列記するにとどめて報告しておくことにした。それが昭和二〇年に医学部を卒業した私にとっては、現役時代が戦中でOBが戦後、「ちょうどその年代の記事が今まで無かった」と唆されて、戦争末期のことも書いてみる。いよいよもって記憶の断片からになるのだが…。

「東京帝国大学音楽部合唱団」終焉の日

 昭和一八年文科系学生の徴兵猶予が停止されることになり、東大校内の空気にも慌ただしさが感じられるようになった。二食の練習場に集まれる部員の数は次第に減っていき、とうとう合唱の練習などできないまでになって了った。最後まで顔を出していた委員の人たちも殆どは近いうちに軍隊に行かなければならない。“もうダメだよネ”ということで残った委員が一度集まることにした。

 この年の秋、学徒出陣の直前の頃の一日、古河庭園の側にあった私の家に集まったのは星田守(S20卒)、当山敬男(S22卒)、足立知己(S21卒)の三君だったと思う。これが最後ということで、いろいろ話ももりあがった筈なのにまったく覚えていない。歌も唄ったと思うのにこれも全然記憶がない。持参してくれた会計簿や諸記録のノート類は、将来いつのことになるか、どんな形になるかは分からないけれど、またもし合唱のできる日が来るならばその日まで私が預かることとした。しかしその後、私自身海軍にはいり、家は強制疎開で壊されるといったような事があったため、貴重な書類は行方が分からなくなって了ったまま今日に至っている。まったく残念である。

 こんなような訳で最後の部員たちが集まったあの日が戦前のコール「東京帝国大学音楽部合唱団」の終わった日であった、と私は今も思っているのである。

YOBを経て「東京大学OB合唱団」へ

 戦争が終わって軍隊に行っていた人たちが戻ってくると、昔歌っていた連中がまた合唱を始めるのはごく自然のなりゆきである。以前どの合唱団で歌っていようと卒業してしまえばみんな同じOBということになる。OB合唱団で戦前から続いているのはいわば正統派ともいうべきグループで大ヴェテランが中心、長井維理(T8卒)、杉基一(T10卒)、斎藤斉(T13卒)、坂本吉勝(T7卒)さんら諸先輩がおもだったところだった。そのほか計測工学のぬしのような存在だった穂坂直弘(S15卒)さんも重要な人だったし、佐々内科の怪人栗本東一(S13卒)さんもときどき顔を出しておられたように記憶する。余談になるが杉さんのことで印象に残っていることがある。杉さんは女優杉葉子さんの父君で当時政府高官としての要職におられた。ある集まりの席でアルコールが回りかなりメートルがあがってきた頃、やおら立ち上がった杉さんはお膳に片脚をかけてヒトラーの演説のものまねを一席ぶたれたのであった。当時アメリカ語の氾濫していた日本でドイツ語の演説は耳に新鮮にひびいたのを覚えている。

 こうしたややもするとソリストの重唱のようになりかねない合唱でなく、普通の、定期的に練習をやっていくような合唱団があっても良いんじゃないかといった声が若手の間から起こってきた。それがだんだん具体化して「東大Y・O・B合唱団」の誕生(昭和二二年)となり、本格的に「東京大学OB合唱団」の発足へと話が進んだのは、昭和二五年にはいってからのように記憶する。手もとの古い記録ではざっと次のようである。

昭和二五年二月一五日、部室に一〇人ほど集まり(氏名不詳)新しいOB Chorについて相談する。練習は一週おきとすること。

 二月二七日、穂坂さんの意見で、各OB団体が合流するのではなく、新しい一つのOB合唱団が発足するかたちをとることとする。

 三月九日、OB合同懇談会。斎藤斉、星田守、当山敬男、足立知己氏ら、菊池

 三月一一日、打合せ会。穂坂、東川、小田切氏ら、菊池

 四月一日、打合せ会。坂本、穂坂、東川、小田切氏ら、菊池

 四月一四日、OB合唱団第一回練習。指揮 薗田誠一先生。団員約三〇名

 五月二一日、合唱祭(五月祭) 新OB合唱団として最初のステージ。

指揮 薗田先生

曲目 Die Nacht Sterbelied;Standchen (Marschner) ;Jagersabschied

 六月一九日、会則草案の検討(於  坂本氏事務所)。坂本、穂坂、小田切、東川、加太氏ら、菊池

 六月二九日、打合せ会。山崎道雄、高田誠二氏ら、菊池

・・・この辺りから以降のことは、先号の会報(32号、6~7頁)、高田さんの詳述に譲る。


関西OB会だより

関西OB会だより(平成十三年十一月)

◆ 関西OB会会長 久山研一氏ご逝去

十月八日、関西OB会の久山研一会長(S35年卒T2、関西OB会ではT1)が、肝臓ガンのため亡くなられた。享年六三歳。入退院を繰り返しながらも元気に練習に参加されていただけに、突然の訃報に接して関西OB会メンバー一同言葉もなく、ただただ呆然とするばかりである。

ご遺族のお話では、約二年半の間に実に十二回も入退院を繰り返されたとのこと。この間、体力の許すかぎり関西OB会の練習にも本番にも参加され、愚痴や弱音はただの一度も口にされず、常に何事にも積極的で、前向きの姿勢を崩さず、明るく振舞っておられた。小康状態の間にパブロ・カザルスの聖歌を男声版に編曲されるなど、最期まで関西OB会のためにご尽力いただき、本当に頭の下がる思いで一杯である。

十月九日のお通夜、十日の告別式の両日、文字通りの「涙雨」が静かに降り注ぐ中、関西はもちろん東京からもコールOBが駆けつけ、久山氏が生前指揮をされていた三菱電機葵合唱団に混じって「遥かな友に」の合唱で最期のお別れをさせていただいた。

関西OB会は、これで栗原至道氏(S36年卒B1、平成五年没)、渡辺肇氏(S33年卒B2、平成八年没)に続いて、創立以来のかけがえのない中心メンバーを相次いで三人も失うこととなった。いずれもまだまだこれからというお年であっただけに、返す返すも口惜しく、残念でならない。久山会長のご冥福を心からお祈り申し上げる。合掌。

○ バッカスフェスタ(関西男声合唱祭)に初参加

 十一月四日、兵庫県の伊丹ホールで開催された関西合唱連盟主催の第三回バッカスフェスタ(関西男声合唱祭)に、関西OB会が初参加した。過去二回はリサイタルなどの都合もあって参加を見合わせていたが、ママさんコーラス大会の向こうを張って始まったバッカスフェスタの人気の高まりを見て、今回思い切って参加したもの。

当日は、連休を利用してはるばる東京から応援に駆けつけた富松太基氏(S47年卒T2)も含めて十三人が参集し、多田武彦作曲の「尾崎喜八の詩から・第二」より、「雪消の頃」と「田舎のモーツァルト」の二曲を、吉田謙吾氏(S55年卒B1)の指揮のもとに爽やかに歌い上げ、ステージ上での目撃者の談によれば、通常の拍手のほかに少なくとも聴衆の何人かは大喝采を浴びせていた、らしい。

なお、出番終了後は速やかに宴席に場所を移しての反省会(これは東京のアカデミカコールでは練習後の定例になっているらしいが)となり、木枯らしで冷え切った体を温かいうどんすきとアルコールで暖め、和やかな一日を終えた。

○ 創立二十五周年記念コンサート開催へ

 関西OB会では、平成十四年二月に創立二十五周年記念コンサートを開催する運びとなった。概要は以下のとおり。

・日 時  平成十四年二月二十三日(土) 午後五時開演(予定)

・場 所  神戸市産業振興センター(JR神戸駅下車、徒歩五分)

・プログラム

  パブロ・カザルス聖歌集(オルガン付き)

  アントニオ・ロッティ作曲 イ短調ミサ(オルガン付き)

  多田武彦作曲 「尾崎喜八の詩から・第二」

女声合唱団アンサンブル葉音のステージ

アカデミカコールのステージ(調整中)

            (ステージ順は未定)

 今回は場所を神戸に移してのコンサートとなるが、ホールは約四百席と今までの会場よりも広く、響きもなかなかいいとのこと。なお、「パブロ・カザルス聖歌集」は、故久山研一会長の追悼ステージとする予定。

多数のご来場、あわせてご出演のほど、よろしくお願いします。

○ 会員募集中

関西OB会は人数減少に喘いでいます。転勤等で関西に来られた方、関西在住OBをご存知の方、ぜひ情報をお寄せください。

・練習日

毎月第二・第四土曜日 午後三時~六時、これ以外にも臨時練習あり

・場 所

石橋文化幼稚園

(阪急宝塚線、石橋駅下車、東へ徒歩一分)

・問合せ・連絡先

♪米 岡   実(S47卒B1)

勤務先電話 〇七七(五六六)一〇一四

勤務先FAX 〇七七(五六六)一二六二

(大阪ガス㈱・北部幹線部)

E-mail minoru-yoneoka@osakagas.co.jp

自宅電話 〇六(六三八〇)九一六四(FAX兼用)

または

♪中 村 充 男(S38卒T2)

 自宅電話 〇七二三(三四)五八五六

携帯電話 〇九〇(三八四八)〇三三八

(以上 米岡 記)


久山さんを惜しむ

コール・アカデミー関西OB会理事

中 村 充 男(S38卒T2)

『志戸平温泉第五号の番傘に』・・・ご存じの向きもあろう。そう、多田武彦「草野心平の詩から」の第四曲「雨」の冒頭に歌われ、曲の終りにも繰り返されるテノール・ソロ。美声を以てこれを見事に歌い回す人が居た。二十一年前の初夏の土曜日、弁護士菅生浩三さん(昭二七卒)に連れられ、当時西梅田にあったホテル阪神のメンバーズ・クラブの一室で、小生が初めて関西OB会の練習に参加した時のこと。そのソリストこそ他ならぬ久山さんであった。どこかしら民謡あるいは歌謡曲風の、その歌い回しに、その時の指揮者、故渡辺肇さん(昭三三卒)も「なるほどね、これはそんな風に歌うんだね」と感心していた。これが久山さんとの出会いで、小生の脳裏に鮮烈に焼き付いている。

諸兄すでにご高承の通り、久山研一さん(昭三五卒)が去る十月八日午前七時、急逝された。本追悼文を記している小生自体、未だに信じられぬ気持だが、関西OB会としても厳しい現実を受け容れるしかない。十月十日のご葬儀では、故人の公私に亘る八面六臂のご精励と功績を称え、追悼する弔問客が引きも切らず、今更ながら、惜しい人を失った実感を強くした。ここでは当会に関することに絞って、在りし日を偲びたい。

久山さんは当会発足時から参加され、ここ六年間は会長を務められた。一貫してトップ・テノールの実質パート・リーダーであり、会全体の技術顧問的存在だった。久山さんがステージの右端に立つだけでテノール陣が安定した。ソリストとしての活躍も数多く、冒頭に記したのが、その一例である。生まれつきと、更に卒業後、当地でさる高名な声楽家に師事して続けた訓練による美声は、衰えることがなかった。

余談ながら、コール現役時はセカンド・テノールで、やはりパート・リーダー、さかのぼって灘高グリーでは、たしかバリトンのパート・リーダーだったと伺っている。因みに、高校からコール卒までずっと同期で、当会にも在籍された蒲田順一さん(昭三五卒)が、灘高ではバスのパート・リーダーだったとのこと。蒲田さんも十月九日のお通夜に、東京から駈け付けられ、旧友の早逝を惜しみ、悔しがられた。

先程の美声の話に戻って、それこそ二十年以上前に久山さんご本人に伺ったのだが、声の出るうちに、ということで、シューベルトの三大歌曲集、五十八曲全曲を自分で録音されたと言う。今もお家に、それが残っているのだろうか。

美声の話はもう一つあって、往時、当会でもカラオケ懇親会が頻繁に催され、久山さんは、よく艶歌を歌われた。艶歌特有の節回しを、もとの歌手が顔負けするくらい、うまくやってのけられた。その理論もしっかりしているのが、いかにも久山さんらしく、当会十周年記念誌に「演歌指南」として執筆された。

機械工学科卒らしく、オーディオ関連のメカに強く、また仕事柄もあって早くからパソコンを操り、楽譜作成及び再生ソフトなどを駆使して、当会の練習支援、技術向上支援、パート別自習テープ作成など、ずいぶん貢献して頂いたこと、また運営面では、小生などがステージ直前に安易に臨時練習を増やそうとするとき、「事前に決めた練習計画内で仕上げるべし、出来なければ、それが実力」などのアドバイスを頂いたこと、またジョイントや合同演奏での他合唱団との付き合い方の忠告、等々、数え上げればきりがない。二つだけ、久山さんの最近の功績を記す。

一つは、ほぼ四年前、新大阪での当会二十周年記念コンサートでの、初の東西OB合同演奏「月光とピエロ」の指揮。本番も良かったが、当時体調不良を押しての、雪の日の東京出張練習など、その気力や指示の細やかさで、東京メンバーにも「関西に久山あり」との強い印象を与えた、と聞いている。

もう一つは、昨年のレパートリー「フォスター集」での編曲、及び今年のレパートリー「パブロ・カザルス集」での編曲。卓越した耳と楽理、豊富なメカとソフトを駆使して、それぞれのレパートリーで足りない曲の男声版をすべて揃えて頂いた。パソコンで楽譜を作るのにも拘わらず、自分で「浄書」と言われていたのは、一種のジョークだったのだろうか。いずれにせよ、今は我々への最良の贈り物となって残った。来年二月二十三日、当会二十五周年記念リサイタルでは「カザルス集」が、久山さん追悼ステージとして最後を飾ることになろう。

終りに、ここ二年半の久山さんの闘病状況について。何度も、実に何度も入退院を繰り返されたが、出て来られる度に、周囲には明るい顔を見せ、仕事に音楽に全力で励まれた。音楽は三菱電機葵合唱団の指揮と、当会とである。今思っても、その精神力たるや、常人には真似の出来ないものだった。この二年半に久山さんという人間の真骨頂が見られる、と思うのは小生だけだろうか。六十三年という、本来なら長距離トラックとも呼べるところを、最初から最後まで短距離のペースで、しかも残り二周半は更にピッチを上げて、全速力で走りぬけられた、との感が強い。

ご冥福をお祈りするのみである。


現 役 活 動 報 告

土田マーク彰(現役2年)

 練習後の帰宅時に肌寒さをおぼえる時節となりました。OBの皆様におかれましてはますますご清栄のこととお慶び申し上げます。

 さて,さる七月八日には京都におきまして第二九回東大・京大ジョイントコンサートを開催いたしました。私どもの単独ステージは「ラッスス・四声のモテット集」,京大グリークラブは「シューマン・六つの歌」を歌い,合同ステージでは上野正博先生の指揮で清水脩作曲「朔太郎の四つの詩」を演奏いたしました。遠隔地ながら共に音楽をつくる楽しみを今年も味わえたと思います。会場に足をお運びになったOBの皆様には心より御礼申し上げます。

 私どもは現在,十二月の定期演奏会に向け練習中ですが,この冬には例年にない行事が二つあり,目下その準備にも精力的に取り組んでおります。

 特に一月に行われます韓国・ソウル国立大学混声合唱団とのジョイントコンサートは,その規模においては定期演奏会を超え,近年にはない特別行事となる予定です。公演はソウル・東京の両方で行われます。ソウル大合唱団の提唱で始まった計画ですが,この演奏会を歴史的なものとして盛大に開催したいという彼らの意欲は非常に強く,私どももこの稀少な機会を実りあるものと成すべく,あらゆる努力を惜しまないつもりでおります。

 なお,この企画に関して既に一部のOBの方およびOB会にさまざまな形でお世話になっており,たいへん感謝いたしております。なにぶん初めてのことであり,未熟な私どものマネージメントの限界に挑戦するかのような様相を呈しております故,今後も御指導・御支援を仰がねばならぬことがあるかもしれませんが,何とぞよろしくお願いいたします(正直に申し上げますと,特に集客に関してのアイディアや手段を必死で探しておるところでございます)。

 何よりも定期演奏会・ソウル大との東京公演とも,ぜひご来場いただき,日頃の練習の成果を見ていただければ私どもにとってはこの上のない幸いでございます。お願いばかりで厚かましうございますが,どうぞよろしくお願いいたします。

【今後の活動予定】

第四八回定期演奏会

十二月八日(土) 

 十八時〇〇分開場、十八時三十分開演

 於 上野・石橋メモリアルホール

 「ラッスス・四声のモテット集」

    指揮 永井誠(学生)

 「合唱のためのコンポジション 第三番」

    作曲 間宮芳生

 指揮 永井誠(学生)

 「トマス・タリス 四声ミサ」

    指揮 有村祐輔

聖心女子大学グリークラブ第52回クリスマスコンサート(賛助出演)

 十二月十八日(火)、十九日(水)

 於 聖心女子大学内マリアンホール

 ヘンデル「メサイア」より

    指揮 皆川達夫

ソウル国立大学混声合唱団・東京大学音楽部コールアカデミー ジョイント・コンサート

 一月十三日(日) ソウル公演

 一月十六日(水) 東京公演 

於 文京シビックホール 大ホール

 東大単独演奏「合唱のためのコンポジション

 第三番」

        作曲 間宮芳生

        指揮 永井誠(学生)

    「ルネサンス世俗曲の旅」

        指揮 有村祐輔

 合同演奏 ヘンデル「メサイア」より

お問い合わせ:池田亮一

  〇三(五六八九)七五〇九

 〇九〇(五七六八)九八八三、

  e10180@mail.ecc.u-tokyo.ac.jp