演奏会プログラム  2003.9.6 於:紀尾井ホール

1.星の歌  短歌:正岡子規/作曲:番場俊之

  指揮:前田幸康
  管弦楽:KMG管弦楽団
  合唱:東京大学アカデミカコール、東京合唱団

2.レクイエム ニ短調  L.ケルビーニ

  Ⅰ. Introitus et Kyrie
  Ⅱ.Graduale
  Ⅲ.Dies Irae
  Ⅳ.Offertorium
  Ⅴ.Sanctus
  Ⅵ.Pie Jesu
  Ⅶ.Agnus Dei
  指揮:前田幸康
  管弦楽:KMG管弦楽団
  合唱:東京大学アカデミカコール

3.レクイエム op.48  G.フォーレ

  Ⅰ.Introitus
  Ⅱ.Kyrie
  Ⅲ.Offertorium
  Ⅳ.Sanctus 
  Ⅴ.Pie Jesu
  Ⅵ.Agnus Dei
  Ⅶ.Libera me
  Ⅷ.In paradisum
  指揮:前田幸康
  管弦楽:KMG管弦楽団
  ソプラノ:薗田真木子
  バリトン:鹿又 透
  オルガン:草間美也子
  合唱:東京合唱団、(賛助出演)学習院OB混声合唱団


御挨拶

東京合唱団とのジョイントコンサート開催に当たって

梶川 浩(アカデミカコール幹事長)

  本日は東京合唱団とのジョイントコンサートにご来場いただき、まことに有難うございます。アカデミカコールを代表してご挨拶申し上げます。

 我々アカデミカコールは東大コールアカデミーOBを主体とした男声合唱団ですが、学生時代ほとんどのメンバーが故前田幸市郎先生にご指導頂き、男声合唱の魅力に取りつかれたもの達の集まりであります。

東京合唱団はその前田先生が創設された混声合唱団で、以前から我々は兄弟合唱団と言ったある種の親しみを持っておりました。前田先生が亡くなられてしばらくは活動を休止しておられたと聞いておりましたが、ご子息の前田幸康さんがお父上幸市郎先生の追悼演奏会と言う形で東京合唱団を再開されました。その折我々のメンバーにも声をかけていただき、メンバーの一部がモーツァルトのレクイエムにご一緒させていただきました。

 そんな関係から今回のジョイントコンサートとなった次第ですが、我々は二つの大きな楽しみを持って参加させていただきました。

 一つは言うまでもなく前田幸康先生のご指導振りが故幸市郎先生と本当に良く似ていて、練習中にふと幸市郎先生に教えていただいた頃を思い出し、一種のノスタルジアを覚え青春を思い出しながら合唱を楽しめることです。若先生の方が外見的には多少太めではありますが・・・。

 二つ目は本日演奏するケルビーニです。昭和35年に前田幸市郎先生がコールアカデミーにより本邦初の全曲演奏をされた曲であり、その後何度もコールで演奏している曲で、OBも3年前に演奏しており、いわばコールの十八番(おはこ)の曲です。この名曲をご子息の幸康先生がどの様に振って下さるか本当に楽しみです。

 我々はアマチュアの合唱団であり技術的には当然その限界ははっきりしていますが、音楽を愛し合唱を愛する気持ちはプロにも負けないと自負しております。そんな雰囲気を少しでも皆様にお分かり頂けたらと思って本日の演奏会に臨みました。


指揮者・管弦楽団・ソリスト・伴奏者紹介

前田 幸康(指揮)

国立音楽大学卒業。チェロを故小沢弘、故黒沼俊夫、小野崎純の各氏に師事。N響、日フィル等のオーケストラでフリーのチェリストとして活躍し、東京ゾリステン等の室内楽にも力を注ぐ。現神奈川フィルハーモニー交響楽団の前身であるロリエ管弦楽団を故金子登、父である故前田幸市郎と設立、初代チェロ第一首席奏者を務める。

1973年に渡欧し、1974年1月よりフライブルク市立交響楽団のメンバーとなり現在に至る。父幸市郎から指揮の指導を受け、1990年以来日本において指揮活動をしているが、中でもW.A.モーツァルト「レクイエム」、J.G.L.モーツァルト「ミサソレムニス」(日本初演)、グラウンのオラトリオ「イエスの死」(日本初演)は好評を博している。

1985年よりプロアルテ・カンマー・オーケストラ・フライブルクの首席チェロを務め、現在はフライブルク弦楽四重奏団のメンバーとして、ヨーロッパ、日本で活躍。1985年にはフライブルク市よりカンマームジーカーの称号を贈られ、1989年には外国人としては最高の功労賞メダルを同市より授与された。


指揮者の言葉

前田 幸康

東京合唱団とアカデミカコールの合同演奏会は今回で2回目になる。今回は特に各合唱団が以前私の父幸市郎の指揮で日本初演をした曲と、今回書き下ろしの新曲という私にとっても意味のあるコンサートとなった。特にフォーレの初演でのソプラノのソロは私の母だったとのことであり、また今回のメンバーの中には何人か初演に参加された方もおられる。

外国語を学んでいると、いちいち日本語訳をしないでもその意味が分かる時が来る。音楽も全く同様で、音楽を分析しなくても自然に音楽が正しく出来るようになる。しかしこれに至るまでの最大の条件はいかに正確な基礎を学んだかによる。今回の両合唱団にはこの道50年の積み上げられた基礎を感じる。

レクイエムは各作曲者がその力を一番出し尽くした作品である。それを演奏できる喜びは果てしないものがあるがその責任は大きい。

今、私たち日本人が感謝ということをこのレクイエムを通して再考出来ればと思う。


大島 博 (合唱指揮)

東京芸術大学声楽科卒業、同大学院博士課程修了。渡辺高之助、高丈二、中山悌一、原田茂生に師事。1986~88年ミュンヘン音楽大学でエルンスト・ヘフリガーに、1990~91年D.フィッシャー=ディースカウに師事。宗教音楽の分野に幅広いレパートリーをもち、特にバッハのスペシャリストとして活躍するほか、各地でドイツ・リート及び日本歌曲のリサイタルを多数開催。近年は、合唱指揮者としてもその活動の幅を広げている。東京合唱団及び東京大学アカデミカコールの指導もお願いしている。

現在、日本女子大学講師。


KMG管弦楽団

東京合唱団の創設者、故前田幸市郎氏により1982年にKMG合奏団として組織された。東京近郊の第一線クラスのソリストにより結成され、名人芸的なアンサンブルを醸し出す。特にバロック音楽では高い水準を維持している。


薗田 真木子(ソプラノ)

桐朋学園大学音楽学部声楽科卒業。同大学研究科修了。全日本学生音楽コンクール東日本大会第3位入賞。二期会オペラスタジオ第37期修了。修了時に優秀賞受賞。1993年度文化庁芸術インターンシップ研修生。 2001年第12回奏楽堂日本歌曲コンクール第1位入賞。2002年第71回日本音楽コンクール声楽部門第3位入賞。

オペラにおいては桐朋オペラ「利口な女狐の物語」のタイトルロールでデビューし、「フィガロの結婚」のスザンナ、「ラ・マンチャの男 ドン・キショッテ」の公爵夫人、「ミカド」のヤムヤム、「クリスマスの妖精」のみどり児イエス等、多方面のオペラに出演し、好評を得ている。

コンサートにおいては、バッハ「カンタータ」、フォーレ・モーツァルト「レクイエム」、「第九」等のソリストを務める他、日本歌曲やドイツリートを中心に、NHK-FM名曲リサイタルに出演するなど、歌曲の分野でも積極的に活動している。

昨年度より、(財)地域創造公共ホール音楽活性化事業登録アーティストとなり、国内各地において地域に根ざした活動を行い好評を博している。

二期会会員。東京室内歌劇場会員。日本演奏連盟会員。


鹿又 透(バリトン)

国立音楽大学声学科首席卒業。矢田部賞受賞。同大学院オペラコース修了。二期会オペラスタジオ修了時、優秀賞受賞。NHK、東京文化会館等のオーディションに合格。文化庁オペラ研修所第8期修了。文化庁在外派遣研修員としてイタリア・ミラノに留学。在伊中、師の推薦によりコンサートに出演、好評を博す。

オペラにおいては、モーツァルトの四大オペラをはじめ、新国立劇場での「カルメン」「リゴレット」、東急Bunkamuraオペラ劇場での「トゥーランドット」及びエディンバラ国際フェスティバルに出演。小澤征爾オペラプロジェクトにおいては、「フィガロの結婚」の伯爵役、「コシ・ファン・トゥッテ」のグリエルモ役で、小澤氏の推薦により2年連続出演。その他、日本オペラを含め多数出演している。

また、コンサートや宗教曲のソリストとしても活躍の場を広げている。その傍ら、日本各地のオペラ研究団体や合唱団の指導にも力を注ぎ、その指導力に各方面から信頼を得ている。

現在、二期会会員、昭和音楽大学講師。


草間 美也子(オルガン)

フェリス女学院大学短期大学音楽科卒業。同専攻科修了。オルガンを奥田耕天氏、ピアノを小林道夫、大島正泰の各氏に師事。1970年、万博記念オルガンコンクール最高位入賞。1973年ドイツのケルンに留学し、ミヒャエル・シュナイダー氏に師事。ベルリン、ライプツィヒ、ハレ等で独奏者及び伴奏者として演奏活動を行う。バッハの作品をはじめとして、主に宗教曲を演奏。マズーア、ブロムシュテット、レーデル、アルブレヒト等の指揮者と共に、N響、読響等のオーケストラとの共演も多い。1988年、N響定期1000回記念演奏会サヴァリッシュ指揮のメンデルスゾーン「エリア」においてもオルガンを担当し、名演奏を披露した。1998年、テュービンゲンでバッハのオルガンリサイタルを催し、新聞紙上で絶賛される。その他多くのリサイタル、放送、レコーディングを行っている。

現在、銀座教会オルガニスト、恵泉女学園オルガニスト。


第1ステージ:星の歌  短歌:正岡子規(明治33年)

作曲:番場俊之  
指揮:前田幸康
管弦楽:KMG管弦楽団
合唱:東京大学アカデミカコール、東京合唱団

真砂なす 数なき星の 其の中に 吾に向かひて 光る星あり
たらちねの 母がなりたる 母星の 子を思ふ光 吾を照らせり
玉水の 雫絶えたる 檐(のき)の端に 星かがやきて 長雨はれぬ
空はかる 台(うてな)の上に 登り立つ 我をめぐりて 星かがやけり
天地(あめつち)に 月人男(つきひとおとこ) 照り透り 星の少女(をとめ)の かくれて見えず
久方の 星の光の 清き夜に そことも知らず 鷺鳴きわたる
草つつみ 病の床に寐がへれば ガラス戸の外に 星一つ見ゆ


子規の短歌による「星の歌」解説   中村 至(アカデミカコール B2)

正岡子規(1867~1902)は旧来の俳諧を革新した俳人として著名だが、加えて30歳頃から短歌の革新を提唱し、自らも二千首弱を残した。昨年、子規の没後100年を迎えるにあたり、アカデミカコールが子規の短歌より三つの連作を選び、番場俊之氏に「男声合唱とピアノのための組曲」を委嘱した。本日の演奏会では、新たに番場氏に混声合唱向けでかつオーケストラ伴奏付きのものに編曲していただいた「星の歌」を本邦初演させていただく。 

子規庵の病室には、高弟高浜虚子が手配したガラス戸が入れられていた。このため庭とそこに咲く草花の世界が開け、四季のうつろいが歌材となった。当時まだガラスは高価だったが、写生を旨とする子規にはこれ以上の贈物はなかっただろう。「いくたびも雪の深さを尋ねけり」や、せいぜい「たまたまに障子をあけてながむれば空うららかに鳥飛びわたる」だったものが、「夜の床に寐ながら見ゆるガラス戸の外あきらかに月ふけわたる」や「ガラス張りて雪待ち居ればあるあした雪ふりしきて木につもる見ゆ」になったのである。もっとも「をびさし小庇にかくれて月の見えざるを一目を見んとゐざれど見えず」という限界はあるが。

星空もガラス戸を通じて子規の視界に入り、星の歌十首が生まれた。人間の生命が大宇宙の不可思議な力と感応しあっているような、スケールの大きい秀作である。第一首「まさご真砂なす」は子規の短歌の中でも最も著名なもので、感想を寄せる人も多い。『とっても心に染みてくるね。砂のように数が数え切れないほどある星屑のなかに、自分に向かって光っている星がひとつあるっていう意味かな。すごいポジティブだよね。』、『落ち込んでいた時この歌に出会ったのですが、自分に自信がもてない時のドリンク剤的な感じで口にしています。』若い人の感性もなかなかのもの。番場印のドリンク剤はお気に召しましたか。 


番場 俊之

  • 1963年京都に生まれ、3歳の頃よりピアノを始める。
  • 1983~87年ニューヨークのマンハッタン音楽院で作曲とピアノを学ぶ。
  • 1987年~ドイツのフライブルク、カッセルを経て1995年よりベルリンに在住。
  • 1993年バイオリン・ソロのための「Odor of Time-Snow(時の香り-雪)」が武満徹主催のMusic Today 作曲コンクールで一位なしの二位受賞。
  • 1996年マグデブルクのテレマン協会より、テレマン生誕300年記念のために委嘱された、22ソロ弦楽器のための「Wind」が、マグデブルク州立歌劇場オーケストラにより初演。
  • その他、室内楽曲を中心に作曲活動を行い、ドイツをはじめ、ヨーロッパや日本で演奏される。


正岡子規の短歌に寄せて

番場 俊之

子規によるこれらの短歌に一貫している透明なイメージ、静謐さといったものを表現するために、様々な方向へ思いを巡らせたのですが、私自身が彼の歌から感銘を受けたのは、そのあくまでも人間的な表現にです。

彼の表現というのは等身大である、といえると思います。自分自身以上でも以下でもなく、その定められた枠組みの中での何かを希求するようなイメージといえばいいでしょうか。その枠組みとは即ち彼の運命を意味するのですが、その運命を受け入れての諦観の中での表現というよりは、むしろ諦めきれずにいる彼の切なる思いを綴ったものであると私は受け取っています。

つまり、その歌に一貫しているある種の透明で静謐なイメージというのは、純化された彼の魂の表現というよりは、彼が自ら望んで作り出した世界であるというふうに思われるのです。

そのような方向から見て私が感じたことは、論理的に音を組み上げるような手法ではなく、感覚的に直に演奏者や聴衆の意識に響き渡る音そのものが必要であるということでした。メロディやハーモニーもできるだけシンプルに、子規の歌の持つ叙情を活かせるように、しかも子規自身の表現の裏に隠れているであろう部分を音で表現できれば、というのがこの曲の作曲上の狙いでもありました。

この曲を聴いていただき、その辺りのことを感じていただければ幸いです。


アカデミカコール伊予松山にて子規を歌う

塩谷 隆英(アカデミカコール T2)

 2002年8月8日松山市のコミュニティ・センターで、南海放送主催の「フライブルク・前田幸康と仲間たち」という風変わりな名前の音楽会があった。我がアカデミカコールは、総勢33名が幸康さんの指揮のもと、正岡子規の短歌に新進気鋭の作曲家番場俊之氏が曲を付けてくれた男声合唱曲「夏の歌」を歌った。旅費・宿泊費は全て自前、もちろんギャラはない。学生時代に男声合唱の魅力に取り付かれ、学業そっちのけで没頭した東大コールアカデミーのOB達がそれぞれ人生の荒波をどうにか乗り切って再び元の港に集結して新たな旅立ちをするような感じであった。

当時の常任指揮者の前田幸市郎氏が亡くなって早くも14年が経つ。長男の幸康さんはフライブルク市民交響楽団のチェリストとして活躍されていて、最近日本で指揮活動もされるようになった。その指揮ぶりは我々の目には父君とダブる。

幸康さんの夫人は松平家出身で、松山城主だった久松家とは親戚筋に当るそうだ。前田利家と徳川家康の末裔同士のカップルになるわけだが、別に政略結婚ではなく、鎌倉海岸で海水浴をしているときに偶然出会って恋に落ちて結婚されたそうだから、縁は異なもの。その縁で松山市とフライブルク市の姉妹都市縁組に大変貢献された。

幸康さんの日本における指揮活動を支えるサポーター・クラブの名誉会長は、元経団連会長の豊田章一郎氏である。奥様が故前田幸市郎氏の従姉妹に当られるそうだ。このパーティーに時々顔を出される「おすべらかし」のような髪型をした松本安也子女史の仕掛けによって、子規没後100年、松山城築城400年、松山・フライブルク姉妹都市15年など諸々の縁を記念した松山演奏会は成立した。女史は、宮城道雄流筝曲大師範の肩書きを持つ琴のお師匠さんで、松山では相当な実力者と見た。

我がアカデミカコールはこの誘いを二つ返事で受けて立って、「亡き殿の恩顧に報いるため、御曹司の指揮棒のもとに」馳せ参じた。松本女史の演奏する琴のしみじみとした前奏に続いて、子規の死生を超越した透明な心境を表すようなピアノ伴奏があって、「われ昔住みにし跡を尋ぬれば桜茂りて人老いにけり」と歌い出されたのだった。もし泉下の子規が、35歳で早世する4年前の自詠の短歌を、平均年齢60歳を越えた男声合唱団が歌うのを聞いたら、「俺が説いた『写実』にはほど遠いね」と批評したかも。

  琴の音に 声を合はせて 歌ひけり 伊予の松山 子規偲びつつ (隆英)


第2ステージ:レクイエム ニ短調  L.ケルビーニ

ルイジ・ケルビーニ(1760~1842)

岸 柾文(アカデミカコール T2)

ケルビーニはイタリア・フィレンツェで生まれ、音楽家であった父の教育を受け、幼少の時から作曲の才能を発揮しました。既に13才でミサ曲、14才でカンタータ、20才ではオペラを著わしていますが、24才で故郷を離れてからは、81才で亡くなるまで一度もイタリアに戻ることはなく、その殆どをパリで活動した作曲家でした。

ご承知の通り、彼の生きた18世紀後半から19世紀前半は、フランス大革命、ナポレオン時代、復古王朝、7月革命と、フランスおよびヨーロッパが大変革を遂げた時代ですが、その中にあって、ケルビーニは1786年パリに移り住み、革命直前のパリでマリーアントワネットの知遇を得るなどしてパリ音楽界で地位を築きました。彼はかのパリ音楽院(コンセールヴァトワール)の創設時の最高指導者の一人に選ばれるなど、社会的にも高い評価を受ける中で、沢山のオペラを次々と作曲(生涯で25曲のオペラを作っています)、1797年には最高傑作といわれる"MEDEE"を作ります。又、1802年にはウイーンで彼の一連のオペラ作品が演奏されるなど当時最高のオペラ作曲家として絶賛を博します。

しかし彼は19世紀に入ってから徐々に宗教音楽の作曲に活動の中心を移していき、以後亡くなるまでに、キリスト教に対する厳格な帰依心とミサ・テクストに対する深い理解力に基づき、15ものミサ曲を初め2つのレクイエムなど極めて多くの宗教曲、教会音楽曲を残しました。

レクイエムはニ短調〔男声合唱曲〕とハ短調〔混声合唱曲〕の2つですが、「ハ短調」は王党派であったケルビーニが復古王朝ルイ18世の委嘱を受け、革命で命を落したルイ16世の追悼のため1816年に作られたもので、当時パリで大変な評判を得た曲でベートーベンの葬儀でも演奏されました。

本日演奏する「ニ短調」のレクイエムはそれから20年後の1836年、ケルビーニ76才という晩年の作品ですが、自分の葬儀のことを念頭において作られたともいわれています。

この二つのレクイエムとも、構成は全く同じで、又、他の多くの作曲家のレクイエムと異なりソロパートを含まず、フルオーケストラと合唱のために書かれています。

ケルビーニは、生涯を通じてオペラと宗教音楽を中心に430もの曲を作ったといわれますが、晩年はパリ音楽院長に専念しその職のまま81才の生涯を全うしました。


前田幸市郎先生の実験

中内 詢子(元・コールアカデミー伴奏者)

私は中学三年生のとき鎌倉合唱団に入り、大学入学後、暫く東京合唱団に在籍しました。この二つの合唱団は前田先生直属の合唱団です。そして東大コールアカデミーはその弟分ともいえるでしょうか。「僕の大好きなグループだから、伴奏してくれない?」でコールとのおつき合いが始まりました。「僕の大好きな」理由はすぐに分りました。純粋な目の輝き、屈託のない学生気質、ひたむきな情熱(東大の一隅にこんなグループが存在するとは!)・・・そして、さぞかし訓練のしがいのある素朴さ。

そのころ、先生は音楽(発声)上の一つの発見をされました。「音はいったん出されたら減衰するだろう。僕は音の自然な性質に従った音楽作りをしたい」というのが主旨でした。

機会あるごとに、先生は熱心に訴え、主張され、確認されましたが、私はそれを、長年コーラスの理想のハーモニーを追求し、実践された結果、到達した先生の信念と受けとめました。さて、コールもむろん、先生の真理探究のための「実験場」です。くる日もくる日も実験がくり返されました。しかし、このような音楽的理念の実践は、実はそうたやすいものではありません。先生のイメージする音は、つねにあふれるほどの水をたたえた水源から落下する水滴の集まりであってこそ自然で美しくある筈で、素人の乏しい声から絞り出す一滴からどんな音楽がつくり出されるのか、と私は秘かに懸念したものでした。しかし、先生は信仰のように実験をつづけられました。

 前田先生とコールのこの「実験」に居合わせて、私は二つのことに遭遇したのでした。第一に、その実験はなんと楽しかったことか。果しない目標を求めながらも毎回が実に豊かな音楽的発見にみち充ちたものでした。第二は、ステージで起った奇跡――そう、アンコールの「野ばら」です。長く厳しい実験の成果を問う演奏から解き放たれて、ステージがふと無心になった時、清らかな音楽がこぼれ落ちたのです。

さて、今日OBによって演奏されるケルビーニの「レクイエム」は、宗教曲の清冽さと瞑想とともに、「若きヴェルテル」風の疾風怒濤のドラマをたたえた曲のように思われます。40年前のコールの演奏は、青春のエネルギーを全開した迫真的名演でした。今回の演奏がOBの方々にとって、青春プレイバックであるばかりでなく、幸康氏の指揮による、新たな音楽の甦えりであろうと期待しています。


第3ステージ:レクイエム op.48  G.フォーレ

フォーレ「レクイエム」の思い出

丸山 周次(東京合唱団 T1)

 「前田幸市郎先生の合唱団」を社会人を中心に新たに作りたいと、学習院のOBが発起人となり結成されたのが東京合唱団です。それは学習院合唱団が、先輩格の鎌倉合唱団と共に、日比谷で感激の初舞台(ハイドン「四季」)に立った3年後の昭和29年(1954年)6月のことでした。同じ年の11月、学習院・鎌倉合唱団との合同のヴェルディ「レクイエム」が、東京合唱団の第1回目の演奏会となりました。翌年はブラームス「ドイツ・レクイエム」で、学習院との合同演奏は、その後20年近く続きました。

 私は当時、学習院大学合唱団員でしたので、これらの演奏会に参加しておりました。そして昭和31年(1956年)、大学4年の時に歌ったのが、フォーレの「レクイエム」でした。それは、ヴェルディのオペラの様なレクイエム、ブラームスのドイツ語での重厚なレクイエムと違い、なんと近代的なハーモニーかとびっくりしました。そしてテナーパートの私にとって、ソロのメロディの美しさに魅了されました。

 その後、東京合唱団では1962年、66年、72年、79年、84年と、前田幸市郎先生の指揮で演奏し、1998年には前田幸康先生の指揮で演奏しております。

 私はだいぶ後まで知らなかったのですが、実はフォーレの「レクイエム」は、昭和24年(1949年)11月に、鎌倉合唱団が、前田幸市郎先生の指揮で本邦初演をしております。従ってこの曲は、東京合唱団にとっても一番大切な曲なのです。

 私もいろいろな所で、この曲を何十回歌ったかわからないくらいですが、東京合唱団で演奏するときは、特別な思いに駆られるのです。数多く歌っているので、もちろん暗譜で歌うことはできるのですが、譜面をしっかり見ながら歌うことにしております。するとどのページからも譜面の中から色々な風景や思い出が浮かんでくるのです。

 学習院合唱団で歌っていたとき、学習院大講堂での幸市郎先生の指揮棒の振り方と懐かしい表情、堅い木の椅子、風が吹くと砂塵のあがる校庭、練習が終わり東京合唱団との合同練習に出かけていった夜の信濃町の教会、また、鎌倉合唱団との合同練習の為に行った鎌倉の町と練習場所の学校、スピード感あふれる横須賀線のブルーのラインの車体等、一見音楽とは関係のないような事柄ながら、それらの思い出は私の音楽の糧になっているのです。

 本日の演奏会には1956年にも演奏した方が何人か出演されています。本日聴きに来ていただいている中には、当時のメンバーの方々も多数おいでいただいております。嬉しいことです。

 東京合唱団の最盛期がいつだったかはともかくとして、スタートした頃は何も考えず、とにかく夢中で過ごした数年でしたが、これからは幸康先生の元で、すばらしい合唱団を築いて行く事が、幸市郎先生の恩に報いることになると思っております。 


二つのレクイエム

岸 柾文(アカデミカコール T2)

今日は、イタリア人のケルビーニとフランス人のフォーレという対照的な2人の作曲家による二つのレクイエムを演奏を聴いていただきます。

ローマ・カトリック典礼において、聖体(パンで象徴)と聖血(ワインで象徴)を神に奉献する儀式をミサ聖祭といい、その正式のミサ祭に用いられる音楽を広くミサ曲と呼んでいます。

ミサ曲は大きく分けて2種類、教会暦上の通常の主日に行われる「ミサ通常文」と特別の儀式のための「ミサ固有文」があります。

普通のミサ曲はミサ通常文といわれる5つの部分「キリエ、グロリア、クレド、サンクトウス、アニュス・デイ」から成りますが、これに対してレクイエムは正式には「ミサ・プロ・デフンクティス」〔死者のためのミサ曲〕と呼ばれます。つまり、死者の葬儀・追悼という特別の儀式用で、そのため固有文が用いられます。そして、ミサ曲に比べると明るく輝かしい「グロリア」や「クレド」が略され、代わりに、最後の審判を描いた「ディエス・イレ」(怒りの日)のような独特の聖歌や別の章が加えられたり、作曲家によっては同じ章でも多少言葉に変更がある場合もあります。

そして、「レクイエム」と呼ばれるのは、冒頭の入祭唱が「レクイエム・エテルナム・ドナ・エイス・ドミネ」(主よ、彼らに永遠の安息を与え給え)という歌い出しで始まるからで、いつしかこのミサ曲全体を「レクイエム」と呼ぶようになったということです。

今日演奏される曲の内、最初に演奏したケルビーニのレクイエムは、上記の劇的な「ディエス・イレ」を中心に置いた構成になっていますが、この形はモーツアルト、ベルリオーズ、ヴェルディなど多くの作曲家が用いている一つの典型です。

これに対し、フォーレのレクイエムは敢えてこの「ディエス・イレ」の部分を削除し、僅かに最後の2行(慈しみ深き主イエスよ、彼らに安息を与え給え)の部分のみを活かした形をとっています。

従って全体として、静かな、安息への願いが貫かれた形になっています。なお20世紀のフランスの作曲家デュルフレがこれを踏襲したレクイエムを作曲しています。

混声と男声の違い、ソロパートの有無、更にこの「ディエス・イレ」の有無などを聴き較べながらお楽しみ下さい。


演奏歴

正岡子規の短歌(番場俊之作曲) 演奏歴(東京大学アカデミカコール、東京大学音楽部コールアカデミー)

  • 2002年(平成14年)8月8日 松山市総合コミュニティセンター キャメリアホール
    「夏の歌」 (本邦初演)
    指揮:前田幸康、筝:松本安也子、ピアノ:大島由里
  • 2002年(平成14年)12月1日 ティアラこうとう(東京都江東区)
    組曲3曲「星の歌、無常の歌、夏の歌」 (本邦初演)
    指揮:前田幸康、ピアノ:大島由里
  • 2003年(平成15年)9月6日 紀尾井ホール「星の歌」
    指揮:前田幸康、管弦楽:KMG管弦楽団(合唱:東京合唱団と合同)

フォーレの「レクイエム op.48」 演奏歴(東京合唱団)

  • 1956年(昭和31年)7月11日 日比谷公会堂
    指揮:前田幸市郎、管弦楽:東京交響楽団
  • 1962年(昭和37年)6月 24日 聖心女学院教会
    指揮:前田幸市郎、オルガン:松本和子
  • 1966年(昭和41年)12月4日 東京文化会館
    指揮:前田幸市郎、管弦楽:東京交響楽団
  • 1972年(昭和47年)10月27日 東京カテドラル聖マリア大聖堂
    指揮:前田幸市郎、管弦楽:神奈川フィルハーモニー管弦楽団
  • 1979年(昭和54年)12月2日 日比谷公会堂
    指揮:前田幸市郎、管弦楽:新日本フィルハーモニー管弦楽団
  • 1984年(昭和59年)10月26日 東京カテドラル聖マリア大聖堂
    指揮:前田幸市郎、オルガン:佐藤ミサ子
    チャリティーコンサート
  • 1998年(平成10年)8月30日 紀尾井ホール
    指揮:前田幸康、管弦楽:KMG管弦楽団
  • 2003年(平成15年)9月6日 紀尾井ホール
    指揮:前田幸康、管弦楽:KMG管弦楽団

ケルビーニの「レクイエム ニ短調」 演奏歴(東京大学音楽部コールアカデミー、東京大学アカデミカコール)

  • 1960年(昭和35年)12月10日 文京公会堂
    指揮:前田幸市郎、ピアノ:有馬公子(本邦初の全曲演奏)
  • 1963年(昭和38年)12月14日 厚生年金会館
    指揮:前田幸市郎、管弦楽:東京大学音楽部管弦楽団(本邦初のフルオーケストラによる全曲演奏)
  • 1969年(昭和44年)11月30日 厚生年金会館
    指揮:前田幸市郎、管弦楽:萩音楽祭管弦楽団
  • 1980年(昭和55年)12月22日 郵便貯金ホール
    指揮:前田幸市郎、管弦楽:東京大学音楽部管弦楽団
  • 1996年(平成8年)12月10日 東京カテドラル聖マリア大聖堂
    指揮:三澤洋史、ピアノ:小野智子 (抜粋演奏)
  • 1998年(平成10年)1月31日 音楽の友ホール(大阪)
    指揮:市木圭介、ピアノ:小野智子 (抜粋演奏)
  • 1999年(平成11年)4月25日 人見記念講堂
    指揮:三澤洋史、ピアノ:大島由里 (抜粋演奏)
  • 2000年(平成12年)1月23日 ティアラこうとう(東京都江東区)
    指揮:三澤洋史、管弦楽:東京ニューシティ管弦楽団
  • 2000年(平成12年)5月28日 大阪音楽大学 ザ・カレッジ・オペラハウス
    指揮:井上和雄、管弦楽:オペラハウス管弦楽団 (抜粋演奏)
    「ANCORの会」第20会記念演奏会合同演奏
  • 2003年(平成15年)9月6日 紀尾井ホール
    指揮:前田幸康、管弦楽:KMG管弦楽団

前田幸市郎先生の思い出

高橋 誠也(東京J.S.バッハ合唱団常任指揮者)

前田幸康氏の父君に初めてお目にかかったのは、私が山形大学特設音楽科1年生の6月。ヴァイオリンの先生や作曲の先生のこころもとない指揮に慣れていた我々の前に、プロの指揮者が颯爽と現れました。ベートーヴェンのコリオラン序曲でした。最初の一振りでfの強奏が鳴り響きました。「しまった! 来るんじゃなかった!・・・」(余りのひどい音程に:先生の後日談) 

それからというもの、先生は指揮者というより指導者として、我々学生に音楽の基本を徹底的に叩き込むべく、30年間にわたって山形に通われました。その間のご苦労の詳細を著した「光の音」があり、一読をお勧めします。ユーモアに溢れた「前田語録」がたくさん載っています。"どこの何様でもないのに、何が個性だ! 個性とは悪癖だ" "個性なんて自分で出す必要はない。聴く人が決めるんだ" "上手いヨ、あとは音程とリズムだネ" "音楽で説明出来るのは構造以外にはないヨ" などと、ご自分の教えたことが将来教師となる学生を通して何万人の子供たちに影響を与える重大さを考えられて、あくまで「基本、基本」でした。

幸い、私は卒業後引き続き「指揮法」のレッスンを受けることが出来て、鎌倉のお宅に通うことになり、東京合唱団の伴奏者兼副指揮者としても先生から宗教音楽を学びました。レッスンを受けるためにしばらく鎌倉に住みましたが、その頃幸康氏はチェロを勉強していて、時々イッパイやりに居酒屋に足を運んだものです。

フライブルクにチェリストとして移られてからは、私が旅行した時にお世話になる程度の疎遠さになりましたが、幸市郎先生が学習院百周年記念講堂でバッハのヨハネ受難曲を指揮した時、幸康氏が帰国してソロを受け持ちました。その時の演奏が本場ヨーロッパの香りに満ちた素晴らしいものでした。その後、私も東京J.S.バッハ合唱団でヨハネを計画していましたので、早速依頼して弾いてもらいました。今から11年も前のことです。

指揮法こそ父君から正式に指導を受けたわけではないにしても、共演の機会を通してその音楽はきっと受け継いでいるわけですし、ここ数年の彼の指揮の姿にそのことを確かに見ることが出来ます。それにヨーロッパで磨いた感性が加わり、あとは経験を積み重ねるごとに"僕は日本の音楽の捨石になるヨ"とおっしゃった幸市郎先生の「基本を大切にする音楽家の言葉」に花が咲き、実を結ぶことになると思います。

幸市郎先生が本邦初演なさったというフォーレのレクイエムを今日はⅡ世の幸康氏がどのように演奏なさるかと、とても楽しみにしております。


アカデミカコール出演者名簿

《トップテノール》

草島次郎、上野紘機、三枝格一、和田宏一、田中敏章、沖村恒雄、富松太基、酒井雅弘

《セカンドテノール》

廣田憲一郎、山内貞次、黒岩恭浩、小玉武司、桂彰彦、岸柾文、中村晴永、青木修三、赤羽正昭、大澤淑郎、梶川浩、森明夫、五月女勲、塩谷隆英、平野直樹、宮本昭彦、川越和雄、沢田茂、三木 祥史

《バス》

大山哲雄、福田恒男、中村至、小笠原光聰、染谷辰次、蒲田順一、清水重男、小山朝久、下苙直樹、進藤正明、岩本宗孝、山岡成行、大橋正教、小林務、市井善博、荒川昌夫、広畑俊成


編集後記

▼前田家の父と子を指揮者に仰ぐ二つの合唱団の2度目のジョイント・コンサートのプログラムづくりは実に楽しい作業だった。ミーティングは新大久保の居酒屋で行われ、ジョッキ片手にいろいろなアイデアを出し合い、「見る」だけでなく「読んでいただく」プログラムを目指した。

▼プログラム以外の計画の議論にもたっぷり時間を使い、練習-本番-打ち上げに至る全ての事項について、入念な打ち合わせを行なって、本日の開演に漕ぎ着けることが出来た。

▼両合唱団が得意とする二つのレクイエムに挟まれた形で「子規の歌」が歌われる。子規がどんな思いで聞くだろうか、想像するとちょっと楽しくなる。

▼なお、このプログラムの作成に当たっては、表紙デザインに前田真里さん(幸康氏令嬢。在フライブルク。)のアイデアをお借りし、印刷に当たっては内外孔版(株)の岡本隆夫氏、ジャムの中原潤二氏に一方ならぬお世話になった。厚くお礼を申し上げたい。(森)

企画・編集委員長:森 明夫/編集委員:坂井田廣子、浜さゆり、荒川昌夫、富松太基、山岡成行