アカデミカコールと奏でるケルビーニ
三澤 洋史
アカデミカコールの人達との練習は楽しい。僕の注意に対するリアクションが、他の合唱団と全然違うのだ。僕が合唱を指導する時はいつも、言葉のリズムや抑揚がどう音楽を形作り、言語的世界がどう音楽的世界と関わっていくか、といったことを追求している。その上で具体的にどう声を出し、どういう表現をするべきなのか細かく規定していくわけであるが、僕はコールの人達ほど、僕の指示の意味を即座に、しかも深く理解出来る人達を知らない。そのベースには、故前田幸市郎氏という素晴らしい指導者の隅々までの行き届いた指導が、彼等の中で血となり肉となっているという歴然とした事実があろう。そしてまさにその点こそが、コールのコールたる所以であるのだ。
ケルビーニのレクイエムは、かつて前田氏の薫陶のもと、コールアカデミーが日本初演した意味深い曲だ。一方僕自身はこの曲を指揮するのは初めてである。みんないろんなイメージを持って練習に臨んでいるんだろうなあ、と思いながらも、僕だって負けてはいられないと、いつも練習の度に身を引き締める。僕が全身でぶつかれば全身で返ってくる。コールの人達との、その本気のキャッチボールが楽しい。
この曲は、対位法もあるが全体としてはかなり和声的な作品だ。メロディーをくっきりと浮き立たせながら、澄みきった響きでまとめなければならない。死者のためのミサ曲とは言うものの、キリスト教的に考えれば死者の行く所は光明に満ちた世界なので、悲しみに耽溺してしまってはいけない。むしろ曲の中に深い安らぎや癒しを表現したい。
アニュス・デイの最後の方で、同じ音がずっとお経のように続く個所がある。これは明日をも知らぬ命の不安の中で揺れ動く人間存在の表現である。突然ニ長調になり、「永遠の光もて照らし給え。」とまばゆいばかりのクライマックスが来る。光明の世界が一瞬のうちに開示され、我々はその光に触れる。が、それもつかの間。再び現実に引き戻されてニ短調で静かに曲は終わる。だが我々の心の中には残っている。たった一瞬だったけれど、自分達の前に現れたあの世界の輝きが・・・・。
大好きなアカデミカコールの人達と、この曲の中に光を探す旅に出ます。皆さんも一緒に探してください。
ケルビーニの横顔 Luigi Cherubini 1760~1842
岸 柾文(昭和36年卒、T2)
ケルビーニは日本ではあまりよく知られている作曲家とはいえないかもしれませんが、上記生年からもわかるとおり、モーツアルト、ベートーベン、メンデルスゾーン、シューマン、ベルリオーズなどとほぼ同時代(古典派からロマン派)を生き、彼らとも交流した人で、しかも当時としてはかなり長寿の人であったと言えます。
彼はイタリア・フィレンツェで生まれ、ハープシコード奏者であった父の指導を受け、幼くして才能を認められ、当時のイタリア・トスカナ大公の庇護のもと、大作曲家サルトリに学び、13歳ですでにミサ曲、14歳でカンタータ、20歳ではオペラを作り、好評を博したといわれる天才でした。
24才で彼は故郷を離れ、2年間のロンドン滞在を経てパリに入り、当時フランス大革命の前夜であったパリで、マリー・アントアネットの知己を得たことが大きな力となり、彼はパリ音楽界で大活躍をすることになります。
最初はオペラ作曲家として名声を挙げ、彼の最高傑作といわれる「MEDEE」(1797)をはじめ、次々とオペラを作曲、生涯で25曲のオペラを作っていきます。更に、1802年にはウイーンで彼のオペラ作品の連続演奏会が行われ、1805年にはウイーンに招かれ大歓迎を受けるなど、彼のオペラ作曲家としての絶頂期を迎えます。
しかし、この頃から、皇帝ナポレオンとそりがあわなかったということも影響してか、彼のオペラはパリでだんだん演奏されなくなり、それ以後彼は作曲の中心を教会音楽におくようになってきます。
彼は生涯で15のミサ曲と2つのレクイエムを作り、更に数多くのオラトリオ、カンタータなどの宗教曲を書いていますが、これほどの数のミサ曲を作った作曲家は他にいません。これは彼の厳格なまでのキリスト教に対する帰依心、ミサ・テキストに対する深い理解によるものといわれます。
彼の作った二つのレクイエムのうち、ハ短調レクイエム(混声合唱)は、復活したブルボン王朝の依頼により、1816年、ルイ16世追悼の為に作られたものですが、当時パリでとても人気があったといわれ、かのベルリオーズも激賞したといわれます。ベートーベンもこの曲を高く評価し、「自分がもしレクイエムを作るとしたらケルビーニを範とするだろう」と言ったというのはよく知られていることですが、そういうことがあったためか、ベートーベンの葬儀に際して、このハ短調レクイエムが演奏されています。
なお、本日演奏するニ短調レクイエムは1836年に作曲された比較的珍しい男声合唱用のレクイエムですが、彼自身の葬儀に演奏されています。
このように彼は、生涯にオペラと教会音楽の声楽曲を中心として430もの曲を書いた多作曲家でしたが、1822年には彼が自ら参画して設立したかのパリ音楽院の院長に就任し死ぬまでその地位を務め、音楽界の発展に大きく寄与し、オペラ作曲家と宗教音楽作曲家としての81才の生涯を全うしたのです。
コールアカデミーの演奏歴
- 1960(S35)年12月10日 定期演奏会(現役) 文京公会堂
指揮:前田幸市郎 ピアノ:有馬公子
全曲演奏 ( Kyrie, Graduale, Dies Irae, Offertorium, Sanctus, Pie Jesu, Agnus Dei ) - 1963(S38)年12月14日 定期演奏会(現役) 厚生年金会館
指揮:前田幸市郎 管弦楽:東大音楽部管弦楽団
全曲演奏 - 1969(S44)年11月30日 定期演奏会(現役) 厚生年金会館
管弦楽:
全曲演奏 - 1980(S55)年12月22日 定期演奏会(現役) 郵便貯金ホール
管弦楽:
全曲演奏 - 1996(H8)年12月10日 定期演奏会(現役)OB単独ステージ 東京カテドラル聖マリア大聖堂
指揮:三澤洋史 ピアノ:大島由里
Graduale, Dies Irae, Agnus Dei - 1998(H10)年1月31日 関西OB会20周年記念コンサート 賛助出演;OB単独 音楽の友ホール(大阪)
指揮:市木圭介 ピアノ:小野智子
Graduale, Dies Irae, Agnus Dei - 1999(H11)年4月25日 東京六大学OB合唱連盟演奏会 人見記念講堂
指揮:三澤洋史 ピアノ:小野智子
Kyrie, Offertorium - 2000(H12)年1月23日 アカデミカコール演奏会 ティアラこうとう
指揮:三澤洋史 管弦楽:東京ニューシティー管弦楽団
全曲演奏 - 2000(H12)年5月28日 ANCORの会第20回記念演奏会 合同演奏 ザ・カレッジ・オペラハウス
指揮:井上和雄 管弦楽:オペラハウス管弦楽団
Kyrie, Dies Irae, Sanctus, Agnus Dei - 2003(H15)年9月6日 アカデミカコール・東京合唱団 ジョイントコンサート 紀尾井ホール
指揮:前田幸康 オーケストラ:KMG管弦楽団
全曲演奏 - 2009/9/13 前田幸市郎メモリアル東京合唱団・アカデミカコール演奏会 紀尾井ホール
指揮:前田幸康 オーケストラ:KMG管弦楽団
全曲演奏 - 2012/12/16 コールアカデミー第59回定期演奏会 代々木オリンピックセンター
指揮:三澤洋史 ピアノ:三木蓉子
Dies Irae, Pie Jesu, Agnus Dei - 2013/02/26(予定) NYカーネギーホール公演 「東日本大震災復興支援と感謝の集い」 NYカーネギーホール
指揮:伊藤玲阿奈 レオナ・イトウ・チェンバーオーケストラ オルガン:三木蓉子
全曲演奏 - 2013/10/14(予定) ケルビーニ「レクイエム」演奏会 東京オペラシテ
三澤洋史
全曲演奏
コールとケルビーニの最初の出会い
中村 良太(昭和37年卒、B1)
今から40年も前、私がまだ現役コール部員で、翌年度の選曲について検討していたときのことです。指揮者の前田幸市郎先生が、ケルビーニのレクイエムという何やら大曲の楽譜を持って見えました。もしも、コールがとくに大いにファイトを出して取り組むというなら、それでもよいが、という先生のお言葉でした(と思います)。「なんだい、この楽譜は」と、私は楽譜を一目見て思わずつぶやきました。大変に昔の形式で書いてあって、どうにも音が取れない。特殊な音部記号(ハ音記号)で、音符が現在のものと一段ずれている(たとえばドの音が楽譜のミのところに書いてある)のです。
プロならなんとかなるかもしれないと、知り合いの芸大生二人に来てもらいました。そのうち一人が、後年コールの伴奏者になった中内(旧姓:日高)詢子さんです。さすが、ピアノで何とか弾いてはくれましたが、ずれた楽譜でしかも初見では、やはりよく分からない。その中で、一フレーズだけ、とてもメロディーもハーモニーも美しいところが分かりました。こんなに美しいところが一つでも作れる作曲家なら、あともよいはずだと、エイヤッと採用しようと主張する判断をしました。
その時は、そのケルビーニがそれ以降、現在まで40年も歌われることになろうとは、予想もしませんでした。曲を与えて下さった前田先生には、あらためて感謝いたしたく思います。
彼らに永遠の安息を、そして我らの心にも
塩谷 隆英(昭和40年卒、T2)
ケルビーニのレクイエムを歌うとき、私の胸には、今は亡き多くの懐かしい人々の顔が甦って来る。クリスチャンでない私は、彼らに永遠の安息を与えたまえと歌いながら、結局自分自身の心の安らぎを求めているのかも知れないが、懐かしい死者たちとの交流の機会を与えてくれるこの曲は、貴重な宝である。
この曲が我が国で初めて完全な形で演奏されたのは、1963年12月14日の東大コールアカデミー第10回定期演奏会のことである。指揮は前田幸市郎氏、伴奏は東大管弦楽団であった。恐らくオーケストラ伴奏付きのスコアは、このとき初めて日本に輸入されたはずである。それは、コールを1961年に卒業され、大学院在学中の1963年に亡くなった渡部純氏のご両親から寄贈されたお金で購入されたものである。第10回定期演奏会の記念演奏として、ケルビーニのレクイエムをオーケストラ伴奏で演奏しようという志を立てたものの、総譜をドイツから輸入せねばならず、当時のコールの財政力では、手が出せないと思案の最中に、本郷の安田講堂にある学生課気付けでコール宛に書留郵便が届いた。開けてみると、当時の授業料の2年分以上の大金だった。同封の手紙には、こんなことが書かれてあった。「自分は渡部純の父親だが、純は先ごろ肺がんを患って亡くなった。学業半ばの息子を失って痛恨の極みであるが、せめてもの供養に、息子が生前打ち込んでいたコールアカデミーの活動のために使っていただければ、息子も喜ぶと思う。」
1961年にコールに入部した私とは入れ違いになるが、ときどき練習に見えていた「ドンさん」というあだ名で親しまれていた渡部さんの重厚な面立ちが甦って来る。
あれから36年の歳月が流れた。あのときステージ・マネージャーとして舞台の袖で120人の合唱団員の服装を一々チェックしていた三浦正顕君(コール昭和40年卒、元国税庁次長・国民金融公庫理事・三伝商事社長)も1998年12月に食道がんで亡くなった。前田先生が亡くなられてからもう10年が経ってしまった。同じステージで前田先生の指揮棒を見つめた240の瞳が再び同じ点に集まることはない。しかし、彼らの魂は、幸いなことに、三澤先生の棒の力によって我々の胸に甦って来る。願わくは、彼らに永遠の安息を。そして我らの心にも安らぎを与えたまえ。