アカデミカコール 現役定演にて オペラ合唱曲を演奏
OB合唱団アカデミカコールは、昨年一二月一〇日(日)紀尾井ホールにて行われた現役の第四七回定期演奏会において、三澤洋史先生の指揮、大島由里さんのピアノ伴奏で、オペラ合唱曲を演奏しました。
演奏曲目は、ベートーベンの「囚人の合唱」、グノーの「兵士の合唱」、ワーグナーの「巡礼の合唱」と「水夫の合唱」の四曲です。
「兵士の合唱」はフランス語で、発音に苦労しましたが、何とがそれらしく出来あがりました。三澤先生の指揮は、さすがにバイロイト音楽祭でオペラ合唱曲の指導をされているだけあって、素晴らしく、会場の皆様にはしばしオペラの醍醐味を味わっていただけたのではないかと思います。
九月にはグノー第二ミサをオーケストラ版で
アカデミカコールは、本年九月二日(日)紀尾井ホールにて、東京合唱団の演奏会に出演し、グノー「第二ミサ」をオーケストラ伴奏で演奏します。
指揮は、前田幸市郎先生のご子息で、現在フライブルク市立交響楽団のチェロ主席奏者である前田幸康氏。同氏は、故幸市郎先生が指揮をされていた「東京合唱団」を受け継ぎ、毎年この時期に同氏の指揮で演奏会を開催されてきました。
今回は、東京合唱団としてはブラームス「ドイツレクイエム」を演奏する予定ですが、同合唱団にも当OBが何人も参加しているご縁で、この演奏会にアカデミカコールも出演することとなったものです。
さて、グノーの第二ミサは、これまでコール現役も何度か取り上げてきた曲ですし、またアカデミカコールとしても演奏をしたことがあります。同曲はオルガン伴奏の曲ですが、今回演奏するに当たり、番場俊之氏に委嘱し、オーケストラ版を編曲していただきました。当然オーケストラ版としては初演となります。オルガン伴奏とは一味違った趣きが感じられるのではないかと思います。是非御来聴下さい。
《 東 京 合 唱 団 演 奏 会 》
日 時:二〇〇一年九月二日(日) 開場午後一時三〇分、開演午後二時
場 所:紀尾井ホール
演奏曲目
グノー「第二ミサ」 合唱:アカデミカコール
ブラームス「ドイツレクイエム」
ソプラノ:平松英子
バリトン:加賀清孝
合唱:東京合唱団
指揮:前田幸康
管弦楽:東京ニューシティ管弦楽団
入場料:五〇〇〇円(全席自由)
連絡先:荒川昌夫(S53卒) 〇三(五七二九)三三六〇(勤)
《 番 場 俊 之 氏 紹 介 》
▼一九六三年、京都に生まれ、三歳の頃よりピアノを始める。
▼一九八三~八七年、ニューヨークのマンハッタン音楽院で作曲とピアノを学ぶ。
▼一九八七年~、ドイツのフライブルグ、カッセルを経て一九九五年よりベルリンに在住。
▼一九九三年、バイオリン・ソロのための「Odor of Time - Snow(時の香り - 雪)」 が武満徹主催の Music Today作曲コンクールで一位無しの二位受賞。
▼一九九六年、マグデブルグのテレマン協会より、テレマン生誕三〇〇年記念のために 委嘱され た、二二ソロ弦楽器のための「Wind」が、マグデブルグ州立歌劇場オーケストラにより初演。
その他、室内楽曲を中心に作曲活動を行い、ドイツをはじめ、ヨーロッパや日本で演奏される。
オーケストラ編曲に取り組んで
番 場 俊 之
この曲の楽譜を初めて目にした時、私には自然に弦楽器の音がイメージされ、その瞬間に、この曲の編曲のための楽器編成を弦楽オーケストラにすることに決定しました。この曲の持つ、静ひつで繊細なイメージをさらに引き立たせるために、弦楽器の持ち味が手助けになるであろうと判断したわけです。
曲の要所によっては、原曲には書かれていないパッセージの追加や、隠されているであろう重要なメロディの表出等も検討しながらの編曲作業となりました。
ただ、あまりにも原曲からかけ離れたメロディーを付け足したり、或いはオーケストラが雄弁すぎては曲の持つイメージそのものが変わってきてしまいますので、できるだけシンプルな方法で最大限の効果を導き出すことを主眼に作業をすすめました。
さて、演奏者の役目とは、作曲者に忠実に演奏するという面ももちろんありますが、作曲者さえも意図しなかったこと、気がつかなかったことを楽譜から読み取り演奏することのほうが、私には意味のあることのように思われます。私はそれを、曲の進化という意味で大切な事であると受け取っています。
そういう面から考えると、今回のこのオーケストラ版への編曲という企画は、今後この曲が演奏される機会が増える事も予想されますし、それが作曲者以上にその作品を理解するためにも良い結果を招くのではないかと考えています。
私は、すぐれた作品は、その作曲者の意図するしないに関わらず、常に進化し続ける物であると常々感じてきました。この編曲版が、多少なりともその手助けになることができれば幸いです。
第二回OB六連 来年4月27日(土) 東京芸術劇場で開催決定
東京六大学OB合唱連盟の第二回演奏会は、来年(2002年)4月27日(土)、東京芸術劇場(池袋)にて開催されることが決まりました。
合同演奏は、各校エールの後、三澤洋史先生の指揮で、オペラ合唱曲の中から「巡礼の合唱」と「水夫の合唱」を歌うことになりました。
委嘱レクイエムの作曲進む
Franz Jochen Herfert先生に委嘱しています、「男声合唱、メゾ・ソプラノとオーケストラのためのレクイエム」についての進捗状況をご報告します。
四月初めに、三澤先生より、Introitus et KyrieとGradualeの部分のフル・スコアを受け取りました。
冒頭の部分は、ゆるやかに、仏教の「声明」の様にRequiem aeterna dona eis domineという祈りの言葉が始まり、次第に各パートが出揃っていく。そこで一転して、Te decet hymnus ,Deus - - - -というフレーズの、叫ぶ様な祈り(激しい「お祓い」の如く)に変わる。
三澤先生は、この出だしの部分について「この様なレクイエムの発想は、日本人ではまず出てこない」とコメントされました。まさに、一流のドイツ人作曲家による「彫りの深い」作品が出来上りつつある、という感があります。
Kyrie部分について、オーケストラの規模(最大の部分)は次の通りです。フルート:3、オーボエ:3、クラリネット:4、ファゴット:3、ホルン:4、トランペット:3、トロンボーン:3、トロンバ、ティンパニ、第一・第二ヴァイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバス。合唱は最大六パートに別れます。なお、五月半ばの時点では、Lacrimosaの辺りまで仕上ったとのことです。
来年四月、六大学OB合唱連盟の第二回演奏会では、一〇分程度でDies Iraeの部分を抜粋し、ピアノ伴奏により初演する予定です。抜粋部分の譜面(Vocal Score、ピアノ伴奏付き)は、八月中に頂ける様、Herfert先生にはお願いしておりまして、九月上旬より音取り練習にかかる予定です。九月からの練習は、従来の「隔週ペース」よりも回数を増やし、土・日・平日夜を混ぜて、月3~4回を計画しています。三澤先生には、ご自身の指導方針をよく理解されている、副指揮者の方もご紹介頂く予定です。
以前、三澤先生からは、「このレクイエムは、男声合唱の歴史を書き換えるかもしれない。」と言われていたのですが、その言葉は過言でない様です。
どうぞお誘い合せの上、多数ご参加下さいます様、ご案内申し上げます。
宮下正先生記念リサイタル大 大 成 功
渋 谷 治 美(S46卒)
昨年一二月二五日に紀尾井ホールにて、「宮下正テノール・リサイタル」が開かれました。これはご承知のように、一九六八年以来コール・アカデミーのヴォイズ・トレーナーをお勤めいただいているわれらが〈宮さん〉が、昨年めでたくも還暦をお迎えになった記念として、実行委員会形式(呼びかけ人代表:山本勝弥氏、S45卒)にて準備し開催したものです。
リサイタルは文字通り大成功でした。当日ご参加くださったOBの皆様、ご寄付をお寄せくださった方々、その他さまざまな形でご支援くださいました皆様に、実行委員会幹事として心から御礼申し上げま
す。ここで少々その大成功の実態をご報告させていただきます。
まず、客の入りですが、紀尾井ホールの収容人数が八〇〇人のところ、約六〇〇人の方が聴きにおいでくださいました。お越しいただいた方は実感なさったと思いますが、ほとんど満席状態でした。そのうちコールOBで直接おいでの方は、手許の資料によればたぶん一〇〇人ぐらいだったと思われます。聴衆のなかには将棋の加藤一二三元名人の姿もありました。
次に〈宮さん〉の歌そのものの調子(でき)ですが、これが最高という以外形容しがたいブラヴォーぶりでした。先生ご自身ご自分の六〇年にわたる歌唱人生の粋を集めて最高のコンデイションで歌うべく、ひそかに一年間精進なさったのだと思います。当然のごとく、会場は終始熱気と(次の歌への)期待と喜びで満ちあふれておりました。地方のOBの方でお聴きになれなかった方には、是非CDで甘い軽やかな歌声と心のこもった絶品の歌唱とを味わっていただければ、と思います(後述)。
先生は、お嬢さんの千佐子さんとのデュエットを含めて一八曲お歌いになりましたが、前半は比較的軽く聴きやすいものを、後半には精神性の深い本格的な芸術歌曲を、とプログラムに工夫を凝らしてありました。さらにアンコールに四曲も!!
千佐子さんはイタリアから帰国直後で少し風邪ぎみだったそうですが、全然気付かれないほど清楚な美声と本場の歌唱を披露してくれました。また、ピアノの高橋さんは全曲(二四曲)を一人で楽々と素敵に伴奏なさっていました。これまた驚嘆のかぎりでした。なお先生のご子息の達也君がアンコールの「天使のパン」でトロンボーンを吹き、お父さんの伴奏を勤めました。ある人いわく、「宮下家は、世界で一番幸せなご家族だ」。本当にその通りのクリスマスの一日でした。
その他、パンフレットも評判のいいものを作成することができました。当日、会場ロビーには「ヤマハ株式会社」をはじめ三つの豪勢な花を飾ることができました。そのうちひとつは、コールOB会からのものです。
ここで財政について簡略にご報告申し上げますと、ご寄付。チケット、CD予約、広告掲載料を含めましてコールOBから約二二〇万円、合計三五〇万円のご協力をいただきました。支出としては、会場費に約八〇万円、印刷代に八〇万円、謝礼四五万円、録音経費一七万円、事務経費に五〇万円、音楽事務所マネージメント料約三〇万円、その他がありました。おかげさまで収支合わせて赤字にならずに済みました。
特筆させていただきたいのは、宮下先生をご存じない世代のOBの方々からも二〇万円以上のご寄付をいただいたことです。これには感激いたしました。重ねて御礼申し上げます。
最後にCDについてご案内申し上げます。実況録音のCD制作を東芝EMIに委託しておりましたが、ようやく四月の末にできあがりました、。素敵なジャケットと充実した解説が添えられております。ご予約をいただきました皆様にはお待たせいたしましたが、先日郵送いたしましたので、お聴きの方も多いと思います。すでに何人もの方から感動の声が寄せられております。
制作実費と郵送代を合わせまして一枚二〇〇〇円でお頒けしております。当日お越しになれなかった皆様、宮下先生をご存じないOBの皆様、当日おいでになったけどCDを予約されていない皆様にも、宮下先生の芸術家魂のあふれる歌唱をこのCDにてお聴きくださるようお薦めいたします。また、お知り合いで音楽愛好者の方にも広めていただけますとうれしく存じます。
お求めの方は
(1) 郵便振込み(〇一五〇―〇―五四一〇三三「宮下正記念リサイタル実行委員会」)にて、二〇〇〇円×枚数 をお振り込みいただくか、
(2) 〇四八―八五八―三一九九 渋谷宛てにファックスにてお申し込み下さい。
なお(1)(2)とも、ご氏名、ご住所、ご卒業年度を明記してください。
以上、簡略ながらご報告申し上げました。最後に再度、このたびご協力くださいましたOBの皆様方すべてに、呼びかけ人、幹事を代表して心から御礼を申し上げます。どうもありがとうございました。
アインザッツのとき
高 田 誠 二(S25卒B2)
◇アインザッツとは
アインザッツと言えば、合唱する我々にとっては歌い「出し」(指揮者にとっては振り下ろし)を意味するわけだが、一方では、ある音が曲の流れの中へ入っていくその「入り」をも意味するようである。つまりそれは、出と入の両義を共有する語と言えるのではないか。
◇三四郎体験
漱石『三四郎』の主人公は九州から出てきて東大の文学部に入る。私は昭和二二年(一九四七)に静岡(旧制)高校を出て工学部に入った。東京の高校を出た人は都会的で、まぶしく見えた。
入学式で聞いた曲を、私はブラームス『大学祝典序曲』の一節と記憶に留めた(後に自分で歌う立場になって知った題はWir hatten gebauet…)。加太さんの記事によれば、これは南原総長ご発案の式典楽の初期の例(2回目?)だったようだ。
十日ほど後の午後、学科の学生控室から漏れ出れる妙(たえ?みょう?)なるハーモニーに引き入れられ、恐る恐る扉を開いて入ったら、世話役の上級生が「やあ、ちょうど一人足りなかったんだ」と招じ
入れてくれた。それがなんと入江久仁男さんで、さっそく仲間入りし声を出してみたら、入江さんが「Mm,譜が読めるんだ!」と評価してくれた。私は、府立高女出の母と姉の手ほどきで幼い時から五線譜に親しんでいたので、「へえ、東京の学生でも譜の読めない人はいるのか」と意外に感じた。私の三四郎的コンプレックスは、この日から急速に緩和され始めた。
ただし、このミニ合唱の次の練習日に紹介された指揮者は穂坂直弘助教授で、この先生は譜が読めるどころじゃない、ハイクラスの洋楽通と知れた。私は平伏した。こうして私は、お二人(共に東京高校出身)の手引きで、ごく自然にコールアカデミー、ひいてはOB合唱の世界に入った。四月末の至福のアインザッツである。
◇コールのアカデミー
コールアカデミー(CA)では、加太さんの闊達なリーダーシップのもと放送・コンクール、翌年のハーヴァードクラブと貴重な経験を重ねた。その間、私に強く影響したのは、赤坂浩さんである。薗田先生の指導に入る前の下稽古は大抵この方が担当した。私はその方の特訓を受けたのだ。
昼休み、部室に入ると赤坂さんが譜を広げて待っている。小学唱歌などの二部合唱編曲集を教材に譜読みマラソンが始まる。メロディは、部室に来ている人に頼めば喜んで歌ってくれる。しかし低声パートは私には初見だ。その低声譜を赤坂さんと競いつつ読んでいく。ページのめくり目では二人とも血眼でオタマジャクシを追っかける。次の曲へ移る際の転調は、ピアノに頼らず頭で計算する。その間、ヴェテラン赤坂さんは、休止符の度に「次はGへの転調だよ」とか「Cへ戻るよ」とか「今度はaモル」とか、果ては「ホルン五度に注意」だの「フリギア終止だ、テヌートしよう」だの、絶妙の予告をしてくれる。なんとも有難い実践ゼミであった。コールのアカデミーとは、合唱の学院なのだと大いに感謝する日々が続いた。
◇一年生でYOB 卒業直前にオルフェオン
昭和二二年クリスマスの日の手帳に放送(YOB)と書いてある。穂坂さんの要請で助っ人に出たのであろう。OB合唱へのアインザッツであった。
二五年に入り卒業論文などで緊張を強いられていた最中、加太さんの誘いでオルフェオンの稽古に出ることになった。赤坂さんは、事情で私たちの前から姿を消していた。二列並びの稽古で低音の端の私がピアノの傍に立つと、高音の端の加太さんから「高田くん、音取って」と指令が飛ぶ。段々と重宝がられて、新曲の下稽古もやらされるようになった。赤坂さんに及ぶべくもない生硬なサブコンがOB諸公の前に立たされたのだから、卒論審査以上に緊張した記憶がある。
◇大合同OBのアインザッツ!
二五年三月、卒論はどうやら通り、就職もほぼ決まった。一八日CA追い出しコンパは恒例どおりだが、先立つ八日、OB大合同の懇話会に出たのは、世俗の順序から言えば奇妙な話だ。第一楽章のコーダより早く第二楽章がアインザッツしたようなものと言うべきか。
OB合同懇話会世話人の一人だった一年先輩の野崎武治さんが場所取りに手こずっていたので、穂坂さんと私が学内を走り回って二食の部屋を確保して戻ったら、正門前「赤門」の席が辛うじて取れていた。
斎藤斉さんらの大OB、穂坂さんらのYOB、加太さんらのオルフェオンそれぞれ十数名が会して、合同の地盤は一挙に固まった。因みに斎藤さんは、その前後、NHKのど自慢全国大会でシューベルトを歌い一位に入賞された。
合同OBの練習は毎週金曜の夜に部室で行われるようになった(最初はたぶん四月二十八日)。五月一二日には薗田先生が見え、同二一日は五月祭に出場。六月二日、CA。OB合同コンパ。六月九日の練習から「青きドナウ」(ドイツ語版)開始。薗田先生たいへんな気の入れようで、以後ながく我らの主要レパートリーとなる。
六月二三日、委員改選。新旧すべて列記しておこうーー(旧)東川・坂本・加太/(留任)穂坂・菊池・小田切/(新)野崎・入沢・高田。新人選挙の三位は山崎・高田が同点となり、再選挙の声もあったが、デンスケでいこうと、斎藤会長がコインを振り、表が出て高田に確定。(ちょうど今アメリカ大統領選挙が泥沼入りしているが、ゴアかブッシュか、コインできめればいいのにと思ってしまう。我らのOB集団の、規則に拘泥しない気質を、私は稀有のものと珍重している。)
◇合同OBの華麗なデビュー
夏は休み九月に再会。一〇月、「青きドナウ」を猛練習し、コンクールで男声一位、全体二位。
[図板]
図版はこの年の「男声一位」の賞状。薗田先生はじめ参加者がサインしている。由緒あるこの賞状は、先般、加太さんがOB会会報記事『「コールアカデミー誕生」の時代』執筆の助走段階で発掘されたもの。オリジナルはOB会事務局(三木さん方)へ収納されたそうだが、コピーはあちこちへ配られて「家宝」扱いを受けた。物故会員某氏奥様は夫君の筆跡に接して「昔は結構きれいな字を書いていたのだなと思いました」と感想を寄せられた。反面、ド稚拙な字が残っていて「見たくねえな」と感じている人もいる。まさに五十年さまざまだ。五十年ついでにバラしてしまうことにするが、この会報紙面上で知名度の高いTO氏、話題の賞状にサインしているけれども、その年まだ現役だったのである。なお、サインの総数は、薗田先生を含め三六人である。
さて、年代記に戻ってーー
翌二六年五月祭、六月合唱祭、一一月コンクール。ドナウ、シューベルトもの、オペラものと、レパートリーは着実な集積を続けた。
賞状がらみの文化財をもう一つーー写真は、コンクールの表彰式後にステージで撮ったものであろう。薗田先生、伴奏の竹西(もと宮原)淳子さんほか三〇名。曲はシューベルトGondelfahrer。賞状を持つのは穂坂さんと小田切さん、カップは斎藤さんである。場所は中央大学講堂だったが、足元に材木など見えるのもご愛敬か。TO氏すでに立派な社会人づらである。
[写真]
以上を以て、合同OBの華麗なアインザッツの記とする。私は、身分の中途半端な存在だったから、合同のための議論に参画していないが。薗田先生の貢献については別の機会に書き留めて置きたいと考えている。
◇沈滞あり実験あり高揚あり
二七年三月のハガキが残っている。東大工・穂坂気付で、練習2回および総会の予定が記されている。場所は部屋と生命保険ホール、「演奏会が近いのに沈滞だ、ぜひ出席せよ」とある。
飛んで、二九年六月のメモ。再会定期演奏会用にポピュラーレパートリーの練習。暗譜・指揮者なし : 穂坂さんの唇がone, twoと動いたらアインザッツと書いてある。けっこう実験的なこともやっていたのだ。曲はHeidenroslein,Wiegenlied等。
同年一一月一二日、シューベルトStandchenの下稽古を受け持つ。同一九日、ベルリオーズDamnation de Faustから「兵士と学生の合唱」。下稽古途中に先生が来られ、コッテリしごかれる。この二曲は、CAと合同の発表会(一二月二日、共済会館)のOB単独プロとなった。ついでだが、ベルリオーズのこの歌劇は二六年一一月、近衛秀麿指揮、日比谷公会堂で上演され、薗田先生の(たぶん唯一の)演技付き出演が話題になった。
続く三〇年一~二月、英国民謡集をおさらいして放送出演。
さて、同年四月の委員改選は、OB合唱の何度目かのアインザッツの前触れとなった。新メンバーを列記するー入沢(委員長)、竹西(渉外)、石津(連絡)、高田(楽譜)、吉田(会計)。
メモは断片的にしか残っていないけれど、いわゆる第一回発表会を意識しての胎動が始まったのだ。五月にはオペラもの四曲をひっさげて放送に出る。兵士・巡礼・廷臣・僧侶――私がガリ判で刷った譜は今でも使われている。六月にはピアノの星野すみれさんも参入された。
九月、発表会日程は一二月二日と決まり、委員に加藤、堀内、右田の三人が入る。その前後、曲目にパレストリーナ「マドリガル」とプーランク「四つの祈りの歌」が加えられ、前者は現役時代に歌った人
も多かったけれど、後者はたぶん日本初演の現代曲(フランス語)で、みな難儀した。下稽古役の小生、縦に四つ並ぶ音譜の調性の激変を一拍ずつ調べて色ペンで記入し、それを見据えつつ要所要所で鍵盤をたたいた。穂坂さんいわく「ああ音が取れないと投げ出したくなる一瞬、君がキーを叩いてくれるので大助かりだ」と。数週後、薗田先生によるプーランク練習の最初の日、先生の指は何回かミスタッチを犯した。私は胸の奥でニヤニヤしながら聞いたのであった。
(四〇年後にシャンティクリアの演奏に接したら、難解な転調の中に澄明な響きが聞こえたー聞くは佳し歌うは辛しプーランク、呵々。)
アンコール用に選ばれたBegin the Beguineの譜を書いたのは一一月二四日、本番は目前だった。練習のあと委員会、終電という日が続いた。
◇ソノちゃんもあがるーーアインザッツの直前
本番の日、ステージ練習も一巡終わり、第一曲パレスとリーナの指揮者譜を譜面台に載せ、我々は舞台に整列。音取りを済ませて待機する。袖におられた薗田先生が私を手で招く。少々うわずったお声で「譜面の最初を見せて…」との注文だ。ひとしきり眺めて袖に戻られる。ややあって開演のブザー。幕が上がり先生の登場、拍手。棒が上がり、鋭いまなざしが全員を走査する。振り下ろし!Donna Vostra mercedeと、半年の苦心を結集した四声のマドリガルが流れ始める。感動のアインザッツであった。
◇入る人 出る人
知る人ぞ知る一つの経緯の故に、私は参加者の数に過敏である。ここに記述した様々な練習やステージの参加数を、手帳に記した限りで拾い出すと、平均して練習では二〇名、少ないと四―五名で先生のご機嫌はすこぶる悪かった。ステージでは二〇~五〇名。
第一回演奏会の写真(OB会会報29号4頁に掲載)には六一名が写っている。薗田先生、ソロの柴田敏子さん(作曲家/音楽学者・柴田南雄氏夫人)、ピアノの星野すみれさん(工学部・星野教授の令妹)、譜めくり(近藤さん)を除いて五七名。蝶ネクタイでない方(四?名)は応援。引き算して五三名が出演者であろう。他方、プログラムにはテナー三一名バス二七名、計五八名が記載されているのだけれども、俺は出ていないよと自己申告される方が何人かおられる。この集合論はなかなか難しい。しかしまアいいさ、コンクールじゃないんだから。
◇出て帰らぬ人
アインザッツは「出陣」の意味ももち、Einsatzからzuruck帰(ケエ)ルことができないとは、戦死を指すそうだ。先輩がた、余り話題になさらないが、お仲間で戦死なさった方もいらっしゃるのではないか。その方々を含め、物故された同志に対し、この機会に、心から哀悼の意を表したい。とりわけ入沢先輩の霊に申し上げたいーー近ごろの練習日、バリトンが少ないんです。来月、トリプロ練習室の扉を押して入ってきてくださったら「ちょうどバリトンが足りなかったんですよ」とお迎えしたいものです!
四十年振り
大 坪 茂(S34卒B1)
以前からK君等、現役時代の友人達から、OB合唱団に参加せよ、と折にふれ進言されてはいたのだが、何せ生来の出不精の故か、或いは声を出す事への自信のなさからか、一向にその気にならないのだった。前田幸市郎先生に入れ込みすぎた故で、他の指揮者には仲々波長が合わない、などと表向きには可成り格好の良い断りの口上を使って来たのだったのだが・・・。
考えてみると、この二、三十年、フルオーケストラのコンサートに行く回数は次第に少なくなり、室内楽的なものへと嗜好の傾斜が強くなっていたこともあってだろうか。
確か一昨年だったか、OB六連、人見記念ホールでの演奏は、歌いに行きたいという気持の嵩まりには至らなかったのだが、昨年のケルビーニの演奏では三澤さんの指揮を初めて聞いたこともあってか、些か蒙を啓かれた気分であった。合唱は、良い意味でも、多少悪い意味でも歌い手の年輪の重みが感じられ、又、オーケストラは、これも良くも悪くも明るく透明な音色が印象に残った。
五月、K君の手配で練習のスケジュールを入手、暇な年金生活者としては、何の躊躇もなく参加すれば良いのではないか、と自分でも思うのだが、いざとなると何か素直に出掛けるには、いささか時間を必要としたのだった。
四十年振りであっても、発声練習をすると何とか声が出てくる様に思えるのは、少々思い上がりだろうか。自称、加齢による音声障害も、次第に気にならなくなって来るのは、正に不思議の想いである。三
澤さんの練習も新鮮な刺激があった。発音の修正を主体にした様な指摘指示でありながら、曲想などが明確に浮かび上って来るのは、新しく楽しい経験であった。さらに加えて、私には反省会の楽しみが出来た。歌の実力からいえば、練習の度に反省せねばならぬのは自明のことであろうが、それにしても反省会出席率の良さは、自慢しても宜しいだろうか。
昨年十二月十日の午後は、正真正銘、四十年振りの合唱ステージだったが、不思議に落ち着いていて、客席も良く見える。演奏も普段の指示を比較的、皆さん冷静に表現できた様に思われる。この日の体験が、私の今後の人生の可成りの部分を、アカデミカコールが占めることになりそうな予感があるのがいささか気掛かりだが。
兎に角、四十年絶えていた「出演プログラム」のコレクションが、復活することになるのは確かなことの様である。
38年組が圧勝! 今年の三期会ゴルフ
野々垣 顕 彦(S38卒 B1)
毎年恒例の三期会ゴルフ「コールオープン」が、快晴の五月二〇日(日)、野田市の紫カントリークラブあやめコースで開催されました。今年は五組、二〇人の参加でした。最大のイベントである学年対抗(各年ネット上位三人合計)は我が三八年組が圧勝しました。二位は四〇年、最下位は三九年でした。三九年卒の森明夫君にメールで成績表をお送りしたところ、次のような返事をいただきました。
「三八年組の優勝は素晴らしい快挙ですね。特に今津さんのスコアは正にプロ並と言えるのではありませんか? 三九年組はいつものように寄付をさせていただく方に回ったみたいですね。博愛精神が徹底しているようです。」
我が軍の今津君はグロス七八(三八、四〇)で、ベスグロ優勝でした。一〇年ほど後のコールオープンではエージシュートの期待が持てます。いつも三八年組に入っていただいている三六年卒の岸さんは今回は欠席でした。同じく三八年組と永久専属契約を結んでいただいている四〇年卒の岡部君の令夫人秀美さんが、今年は特にすばらしい成績で、学年優勝に貢献されました。
森君が「三八年組の優勝は素晴らしい快挙」とおっしゃるのは、ちょっと認識不足で、当日「三八年組は初優勝ではないか」と多くの人が言っていたのと同じ偏見です。今年で二二回を数えるコールオープンですが、私の記憶するところ、少なくとも過去三回は優勝しています。でも、やっぱり少ないか。
後輩諸君、連続優勝されないよう、よく練習して下さい。
終了後のパーティーには毎回、近くに住む四〇年卒の塩谷君が駆けつけてくれますが、気の毒に、連帯責任を負わされて、いつも対抗戦の罰金を払わされています。このコンペは毎年の大きな楽しみです。
腰が曲がるまで、続けたいものです。聞くところによると、三九年組はこの八月に「還暦記念夫人同伴旅行」で、台湾へ行くとのことです。楽しい旅であることをお祈りします。一一月の三期会懇親会で、土
産話を聞かせていただきます。
この文章はコールオープンのご報告をしたところ、三木さんから会報への投稿を依頼されて筆をとりました。三九、四〇年のみなさん、悪しからず。
私は、この五月、石油業界の再編成に伴う傘下保険代理店の合併により新しい会社に移りました。㈱IMSの副社長を務めています。
私は、所属している横浜の合唱団の活動との折り合いがつかず、九月のステージには乗れませんので、現在、OBの練習には参加していませんが、演奏会には必ず参ります。みなさん、頑張って下さい。その後の、委嘱曲「レクイエム」には大変期待しており、歌うのを楽しみにしています。