関西OB会会員 末木弘さんからの提供資料です。

Johann Michael Haydn作曲「Deutsche Mesgesange(ドイツミサ曲)」

今年はモーツァルト生誕250年(*1)に当たり、NHKBS11で「毎日モーツァルト」が放送されていて、その92回(平成18年6月13日放送)でミヒャエル・ハイドンが採り上げられました。ご覧になった方が多いと思いますが、簡単に紹介させて戴きます。

(*1)何か縁があるのでしょうか?今年はM・ハイドン没後200年になります。(末木)

(1)作曲家のプロフィール

ミヒャエル・ハイドンは1737年オーストリアの地方都市ローラウで生まれた。

モーツァルトが尊敬する「交響曲の父」ヨーゼフ・ハイドンの実弟。兄同様、シュテファン大聖堂の聖歌隊(現ウィーン少年合唱団)で教育を受ける。1763年には25歳でザルツブルクの宮廷音楽家に就任。モーツァルトはザルツブルク時代から19歳年上のM・ハイドンを敬愛していた。特にM・ハイドンの教会音楽に強い影響を受けた。

ザルツブルクの三位一体教会で、M・ハイドンは1777年からオルガン奏者を勤めた。M・ハイドンは教会音楽や器楽曲を中心に380あまり(*2)の曲を書いた。1781年、モーツァルトがウィーンに移り住んだ後、後任の大聖堂オルガン奏者になったのもM・ハイドンだった。

1783年の夏、M・ハイドンは6曲の二重奏曲に取り掛かっていた。

ザルツブルク大司教コロレドの命によるものだった。だがM・ハイドンは作曲の途中で病に倒れる。帰郷していた旧友モーツァルトが救いの手を差し伸べた。こうして書かれたのがこの「ヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲」。

M・ハイドンは、モーツァルトの楽譜を友情の記念として長らく大切にしていた。モーツァルトもM・ハイドンへの敬愛を変わらず持ち続け、ウィーンに戻ってからもたびたびM・ハイドンの楽譜を取り寄せた。

他の宮廷からの誘いもあったM・ハイドンだが、この地に留まり続け、一生をザルツブルク宮廷に捧げた。

(*2)実際には800以上の曲を書いている。

ミヒャエル・ハイドン

補足を兼ねてM・ハイドンの自画像と簡単な年譜を次頁に載せておきます。

  • ヨハン・ミヒャエル・ハイドン(Johann Michael Haydn, 1737年9月14日ニーダーエースターライヒ・ローラウRohrau~1806年8月10日ザルツブルクSalzburg)は、オーストリアのローラウに生れザルツブルクで没したクラシック音楽の作曲家。フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの5歳下の弟。生誕地ローラウはウィーンの西約40Km。
  • 1755年までウィーン聖シュテファン教会の聖歌隊で歌うかたわらオルガン、ピアノ、ヴァイオリンを学ぶ。
  • 1757年(20歳) ハンガリーのグロースヴァルダイン司教の楽長となる。
  • 1763年(26歳) ザルツブルクの大司教ジークムント3世(Siegmund III. Graf von Schrattenbach 1753年~1771年)の宮廷楽団のコンサートマスター。
  • 1771年(34歳) ジークムント大司教の死に際して《レクィエム ハ短調》を作曲。
  • 1777年(40歳) 聖三位一体教会のオルガニストとなる。
  • 1781年(44歳) モーツァルトの後任として宮廷及び大聖堂オルガニストとなる。
  • 1800年(63歳) ザルツブルクはフランス軍に占領され、財産や給料を奪われた。兄ヨーゼフが送金して助けている。また、マリア・テレジアがミサ曲、後にレクィエムを委嘱した。アイゼンシュタットに兄ヨーゼフを訪ねた時、宮廷での第2楽長の職を提案されたが、ザルツブルクに留まる事を選んだ。
  • 1804年(67歳) 推薦されスウェーデン王立音楽アカデミーの会員になる。
  • 1806年8月10日(69歳) ザルツブルクで死亡。

弟子達

ウェーバー(1786~1826)は彼の最も有名な弟子である。また、弟子のアントニオ・ディアベリ(Antonio Diabelli, 1781~1858)はミヒャエル・ハイドンの為の葬送行進曲を作曲した。

作品

  • トランペット協奏曲 ニ長調
  • ディヴェルティメント ト長調
  • 24曲のミサ、30曲の交響曲、50曲のオルガンのためのプレリュード、弦楽4重奏曲、弦楽5重奏曲、オラトリオなど多数(800以上)の曲を残している。
  • ト長調の交響曲はモーツァルトが第1楽章に序奏を追加して自分の演奏会で用いたため、しばらくモーツァルト作の交響曲37番K.444として知られた。

(2)作品解説

ミヒャエル・ハイドンが1790年代に作曲した5曲のドイツ・ミサより、第3作目となるのがこの盛儀ミサ曲です。作曲者がヨハン・フランツ・ゼラーフ(Johann Franz Seraph von Kohlbrenner:1728年10月17日生~1783年6月4日没)の蒐集・出版したローマ・カトリック教会の「1777年版ランツフートの祈祷書と聖歌集(Landshuter Gebet- und Gesangbuch 1777)」から歌詞を抜粋、それに曲をつけたものです。原曲はホルン(2本)とオルガンの伴奏付で4人のソリスト、2声の女声合唱或は2声の混声または4声の混声で演奏され、ハイドン・ミサとして親しまれていたようです。

今回採り上げるのは、M.Welcker氏(詳細不明)が「男声合唱曲」用に歌詞を編集、編曲したものです。

歌詞&対訳は、pdfファイルをご覧下さい。