東京景物詩

作詩:北原白秋
作曲:多田武彦
作曲年:1991年
作曲委嘱:東京大学コールアカデミーOB合唱団アカデミカコール
初演団体:東京大学音楽部コールアカデミー&東京大学コールアカデミーOB合唱団アカデミカコール合同
初演指揮者:多田武彦
初演年月日:1991年12月14日
東京大学音楽部コールアカデミー第38回定期演奏会(於東京芸術劇場)

曲目:

1.あらせいとう
2.カステラ
3.八月のあひびき
4.初秋の夜
5.冬の夜の物語
6.夜ふる雪

演奏録音ファイル

会員の部屋』に、ANCOR2013における関西OB会のmp3ファイルがあります。 NEW

練習用ファイル

アカデミカの小部屋』にある「練習用ファイル」ページをご参照下さい。

練習用MIDIファイル

歌詞

あらせいとう 

人知れず袖に涙のかかるとき、
かかるとき、
ついぞ見馴れぬよその子が
あらせいとうのたねを取る。
丁度誰かの為る(する)やうに
ひとり泣いてはたねを取る。
あかあかと空に夕日の消ゆるとき、
植物園に消ゆるとき。

カステラ 

カステラの縁(ふち)の渋さよな。
褐色(かばいろ)の渋さよな。
粉のこぼれが手について、手についてね、
ほろほろとほろほろと、たよりない眼が泣かるる。
ほんに、何とせう、
赤い夕日に、うしろ向いて
ひとり植ゑた石竹(せきちく)。

八月のあひびき 

八月の傾斜面(スロウプ)に、
美くしき金の光はすすり泣けり。
こほろぎもすすりなけり。
雑草の緑とともにすすり泣けり。
わがこころの傾斜面に、
滑りつつ君のうれひはすすり泣けり。
よろこびもすすり泣けり。
悪縁のふかき恐怖(おそれ)もすすり泣けり。
八月の傾斜面に、
美くしき金の光はすすり泣けり。

初秋の夜 

月は十六夜(いざよい)、
ほんの欠け初め(かけぞめ)。
 稲妻だ、幽かな(かすかな)。
濡れて光るわづかの星、
綿雲のうす紫。
 稲妻だ、幽かな。
絶えずまたとどろく海、
嵐の名残。
 稲妻だ、幽かな。
月はいよいよ澄み、
揺れそよぐ斜丘の小竹(ささ)、
 稲妻だ、幽かな。
ああ、そして一面の虫の音、
初秋(しょしゅう)の露。

 稲妻だ、幽かな。

冬の夜の物語 

女はやはらかにうちうなづき、
男の物語のかたはしをだに聴き逃さじとするに似たり。
外面にはふる雪のなにごともなく、
水仙のパツチリとして匂へるに薄荷酒(はっかざけ)青く揺らげり。
男は世にもまめやかに、心やさしくて、
かなしき女の身の上になにくれとなき温情を寄するに似たり。
すべて、みな、ひとときのいつはりとは知れど、
互み(かたみ)になつかしくよりそひて、
ふる雪の幽かなるけはひにも涙ぐむ。
女はやはらかにうちうなづき、
湯沸(サモワール)のおもひを傾けて熱き熱き珈琲を掻きたつれば、
男はまた手をのべてそを受けんとす。
あたたかき暖炉はしばし息をひそめ、
ふる雪のつかれはほのかにも雨をさそひぬ。
遠き遠き漏電と夜の月光。

夜ふる雪 

蛇目の傘にふる雪は
むらさきうすくふりしきる。
空を仰げば松の葉に
忍びがへしにふりしきる。
酒に酔うたる足もとの
薄い光にふりしきる。
拍子木をうつはね幕の
遠いこころにふりしきる。
思ひなしかは知らねども
見えぬあなたもふりしきる。
河岸(かし)の夜ふけにふる雪は
蛇目の傘にふりしきる。
水の面(おもて)に、その陰影(かげ)に
むらさき薄くふりしきる。
酒に酔うたる足もとの
弱い涙にふりしきる。
声もせぬ夜のくらやみを
ひとり通ればふりしきる。
思ひなしかはしらねども
こころ細かにふりしきる。
蛇目の傘にふる雪は
むらさき薄くふりしきる。

[曲目解説] あらせいとう

あらせいとう  詩・北原白秋  曲・多田武彦

      人知れず袖に涙のかかるとき、かかるとき、  
      ついぞ見馴れぬよその子が あらせいとうのたねを取る。
      丁度誰かの為るように  ひとり泣いてはたねを取る。
      あかあかと空に夕日の消ゆるとき、 植物園に消ゆるとき。 (明治43年10月)

       <注>

        1.あらせいとう(紫羅欄花) 英名 ストック アラセイトウ属。春蒔き秋咲きまたは秋蒔き春咲きの一年草。

        2.植物園  東京大学大学院理学系研究科附属植物園。通称小石川植物園。

あらせいとう(ストック)の花

 この詩は明治43年10月に作られ、詩集「東京景物詩及其他」(のちに「雪と花火と改題)に収められている。引越し魔と言われるほど引っ越しを繰り返した白秋は、明43年2月に東京市牛込区新小川町三丁目14番地(現在、新宿区新小川町8)に移り同年8月まで住んでいたが、9月になって東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町85番地(現在、谷区神宮前2丁目4辺り)に移り住んだ。この隣家に運命の人・松下俊子(22歳。新記者の妻)がいた。

 白秋自身の筆になる「雪と花火余言 東京景物詩改題」によると、『牛込新小川町時代愈“PAN”(明治末期の青年文芸家、美術家の懇談会)の盛時に当り、我他皆狂騰して饗宴し作した。ストルム・ウント・ドランクの時代である。“PAN”の友人達は殆ど毎夜のやうに、私の宅に集まった。さうして酒に涵った。而して熱狂する。私達はまたよく袂を連て東京市街を漫歩した。華々しくて放恣なさういふ日が続いたあと、折々急に私は独りなりたくなって、小石川の植物園に日が暮れる迄隠れに行ったりした。』『かうして私は、 一躍芸苑の寵児となった。それから一年経たらずの内に私は 苦しい恋に堕ち、咒はれて、一時はこの世のどん底に迄恋人と堕落して行った。幸いに罪人たる汚名も着ず、事なく許されたけれども、その事実は因習的な世上の譏笑と指弾とを受くるに十分であった。(後略)』と記している。

 白秋は、よく来慣れた小石川植物園の消えかかる夕日の下で、ひとり泣きながらあらせいとうの種をとる子に松下俊子を重ね合わせ、苦渋の恋に身を焼いている。俊子のことは引き続き「冬の夜の物語」で語る。

 また、「八月のあひびき」の傾斜面スロープは、小石川植物園の正門から本館へ上がっていく坂道と言われている。

 (2012・7・21 関西OB会 B2 増田 博 記述)


[曲目解説] カステラ

カステラ 詩・北原白秋  曲・多田武彦

      カステラのふちの渋さよな、
      かばいろの渋さよな、
      粉のこぼれが手について、手についてね、
      ほろほろとほろほろとたよりない眼が泣かるる。
      ほんに何とせう、
      赤い夕日にうしろ向いて
      ひとり植ゑた石竹。

(明治44年5月 「三田文学」)

       <注>

        石竹 ナデシコ科ナデシコ属の多年草  中国原産のナデシコ種(唐撫子ともいう)

 先ず感じた疑問は「この詩のどこに“東京景物詩”があるねん?」ということですが、ちゃんとありました。白秋の第1歌集「桐の花」の冒頭に「桐の花とカステラ」と題する小歌論が置かれています。その最初の数行の中にそれがありました。次の通りです。

『桐の花とカステラの時季となった。私は何時も桐の花が咲くと冷たい吹笛(フルート)の哀音を思い出す。五月がきて東京の西洋料理店の階上にさはやかな夏帽子の淡青い麦稈のにほひが染みわたるころになると、妙にカステラが粉っぽく見へてくる。さうして若い客人のまへに食卓の上の薄いフラスコの水にちらつく桐の花の淡紫色とその暖味のある新しい黄色さとがよく調和して、晩春と初夏とのやはらかい気息のアレンヂメントをしみじみと感ぜしめる。私にはそのばさばさしてどこか手ざわりの淡いカステラがかかる場合何より好ましく味はれるのである。粉っぽい新しさ、タッチのフレッシュな印象、実際触って見ても懐かしいではないか。同じ黄色な菓子でも飴のやうに滑っこいのはぬめぬめした油絵や水で洗ひあげたやうな水彩画と同様に近代人の繊細な感覚に快い反応を起こしうる事は到底不可能である。』

 こんなところに“東京景物詩”があったのですね。白秋は「ちょっと粉っぽいカステラが食べたい」ということを言っているのだと思います。福岡県柳川市の北原白秋記念館を昨年11月初めに合唱団の旧友と訪れました。造り酒屋であった白秋の生家跡が記念館になっているのですが、歌集「桐の花」について次のような説明がありました。

 『「桐の花」の冒頭は、当時、文明開化の象徴と言われていたカステラから始まります。白秋が少年時代を過ごした柳川は、当時物流の最先端にありました。カステラも長崎から舟に乗っていち早く白秋の故郷柳川に運ばれてきました。』

 白秋は、自分の詩歌を読んでもらうためには自分の生い立ちなどの背景を知ってほしい、とどこかに書いていた記憶がありますが、彼は水郷柳川の造り酒屋にTonka john(長男)として生まれ育ち、水月楼などの廃れたNoskai屋の風情を目の当たりにした堀割端でOngo 、Gonshanなどと呼ばれた女の子と遊び、退廃的な粋(イキ)や官能的な気分を身にまとって青年になった人です。ハイカラの先端を行くような長崎伝来のカステラ、甘い香りの桐の花、文明開化只中の東京の西洋料理店。そんな中に“東京景物詩”を見つけ出し、同時に青年の官能を揺さぶられていたのかも知れません。「赤い夕日にうしろ向いて ひとり植ゑた石竹」、白秋のやるせない、切ない思いが強く伝わってきます。

 (2013・1・7 関西OB会 B2 増田 博 記述)